ひとつの秩序
「で、いつ?」
加瀬は空になったアイスのプラスチック容器を置き、二本目を手に取った。
隣にいる加瀬の手は、莉子の手に重ねられたままだ。
最初は熱かったそれも、段々それぞれの手の温度が混ざって溶けていくようだった。
「加瀬が出張に行った、先週の金曜…」
「に?」
「打ち合わせ帰りに、えっと、好きな人作んないでって言われて」
「はぁ」
重なっていた加瀬の指先に、わずかに力がこもった。 逃げ出さないように釘を打つような、静かな重み。莉子の手の甲の骨が、加瀬の体温を直に吸い込んでいく。
「…抱きしめ、られて、でも、彼女いるって思ってたから、彼女さんと仲良くしてくださいって言って」
「…」
「で、逃げた」
「逃げた?」
加瀬は勢いよく莉子を見た。
それに合わせて、莉子もオドオドと目を合わせた。
「う、うん」
「なんで?」
「何でって…え?何で…逃げたくなったから…?」
「へぇ…それで?」
加瀬はゆっくりと視線を前に戻した。何だろう、そんなに変なことを言っただろうか。莉子は戸惑いながら続ける。加瀬は食べ終わったアイスの空容器を机に置いた。
「ちょっと暫くは色々重なって、顔を合わせなくて、昨日、また打ち合わせで」
「…」
「彼女と別れたって、引っ越しも前日に終わったからって、…それで」
「好きだよって?直球?」
「…うん…」
加瀬は重なっている手と反対の手で、髪の毛をぐしゃりとかきあげた。
額に当てられたままの手は、目も一緒に隠しているようだ。
「はぁ〜〜〜」
ずるり、と隣の加瀬の姿勢が崩れた。
ソファにもたれていた背中を崩し、そのまま床に寝転がる。
重なっていた手も離れた。ついさっきまで加瀬の熱が居座っていた場所が、急に空気にさらされて、心許なく感じてしまう。
「俺がいない間にそんなことになってんの〜〜〜」
急に自由になって、重みが消えた手はまだ温かい。
深刻そうでそうでもない、何かを諦めたような、投げやりなような、そんな言い方だった。
「ご、ごめん?」
「いいよ別に、謝ることじゃないだろ」
加瀬は深く息を吐いたあと、笑った。
笑い方は、いつもと同じなのに、どこか力が抜けている。
――あれ?
莉子の胸の奥で、小さく何かが引っかかる。
もっと空気が重くなると思っていた。
もっと、申し訳なくなると思っていた。
なのに、加瀬は、全て分かっていたみたいに、最初から諦めていたみたいだ。
それが、なぜか落ち着かない。
「…加瀬?」
思わず、名前を呼ぶ。
なんと声かけるか、定まらないまま。
「なに?」
「…えっと…なんか…」
「…もっと俺が、動揺すると思った?」
「…あ…そうなのかな…?」
「動揺、してるよこれでも」
加瀬は寝転がったまま、片手で目を覆った。
莉子はそれを隣で見下ろす。
「…南は、どうしたいの?」
「……え、と」
「…すぐ、先輩と付き合うってならなかったってことだろ?」
「あ、うん…」
どうしたいの?
そんなこと、聞かれても分からない。
私は私の気持ちが、ずっと分からない。
考えようとすると、鍋の匂いが鼻に入ってきて、思考が散る。
現実はあまりにも生活感があって、感情の置き場だけが浮いている。
「…何で、俺と今一緒にいてくれんの?」
「…それは…」
「何で、分かってて、家に来てくれんの?」
「…」
「南、」
加瀬は、目を覆っていた腕をどかした。
すぐ隣でそれを見つめていた莉子と、目が合う。
「な、に」
声が震える。
「…俺といると、ドキドキする?」
言えば、壊れると思っていた。
言えば、距離ができると思っていた。
なのに、何も壊れていない。
――じゃあ、私がずっと怖がってたのは、何だったんだろう。
「…するときもある」
「何だそれ。じゃあ、これは?」
加瀬が起き上がって、莉子の手を取った。
指がするりと絡まって、恋人繋ぎをされる。
「………」
「…俺は、するけどね」
「……するょ」
「声ちっちゃ」
加瀬は少し笑った。
目元にくしゃりと、線が入る。
「…聞こえたんならいいじゃん」
莉子の言葉に、加瀬が無言で手を引いた。
こたつの前で、ソファを背に、横並びで座っていた二人の体勢が大きく崩れる。
「わっ」
勢いよく引っ張られ、莉子の身体は加瀬にぶつかる。
目の前には加瀬の胸板が広がる。
――柚子みたいな、少しウッディーな、
部屋着らしいグレーのスウェットは柔らかくて、何度も洗濯されたのか、少しだけくたびれていた。
その奥に感じる胸板は、熱くて、もしかしたら同じ温度かもしれなかった。
「開き直って、余裕だな」
「か、せっ」
「先輩もしてきたんだろ?じゃあいいじゃん」
「い、くないっ、どういう理屈っ」
「なぁ」
片手は、恋人繋ぎをされたまま、床に置かれている。
加瀬が、空いている手を莉子の背中に回して、力を込めた。
「俺のこと、好きに使っていいよ」
「え?」
「気にせず、気持ちとか全部吐き出していいから」
「…」
背中に回された手が、熱い。
胸板も熱くて、もしかしたら、熱いのは加瀬じゃないのかもしれない。
加瀬が少し動くだけで、頬が布に擦れる。
換気扇の音はいつの間にか滑らかになっていて、その代わり、自動モードにしてある暖房が少しだけ強まっていた。これ以上、熱くしないで。
「知りたい?」
「え?」
「何で俺が、こういうことするか」
「え…」
「先輩の時は、どういうこと?何で?って理由知りたがってたじゃん、ずっと」
「だ、だいじょうぶ」
「いいの?聞かなくて」
「う、うん、いい」
加瀬は顔を莉子の肩に埋めて言った。
十五センチほどある身長差も、座っていると加瀬の方が座高が少し高いだけで、顔が近い。こたつの熱が、今になってじわじわと脚に回ってくる。
さっきまでは気にならなかったのに、温かさが増すほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
「残念、いつでも教えてやるのに」
心臓が、ぎゅうと絞りとられているみたいだ。
耳元で囁かれているわけじゃないのに、話す声が、身体から振動して、直接脳に響くみたいで、
息が、
「か、せ」
「明日も俺とデートなの、覚えてる?」
「…う、うん」
「…楽しみにしてる」
「ううう、」
加瀬が頭を少し動かして、頬が、触れた。
ぴとりと一瞬だけくっついて、離れていった。