ひとつの秩序
どうせ帰りは家まで送ってくんだから、南の最寄駅から一緒に行こ。
決定事項のように送られてきたメッセージに、少しの罪悪感と、慣れと、服を選ぶのがワクワクするような気持ち。
加瀬と一緒に遊ぶことも、送ってもらうことも当たり前に受け入れつつあるし、東京にいる女友達よりも会う頻度は高いけど、もし、先輩と付き合ったら、こういうことも、ぱったりなくなるんだよな。当たり前か。
莉子はそんなことを考えながら、電車の座席から、隣に座る加瀬を見上げた。
土曜日の電車は空いていた。この沿線に乗るのは、加瀬と、飲めるシュークリームを買いに行った時以来だ。だいぶ、変わったな。
「加瀬、道わかるの?」
「まー、この辺は普通に来るしな」
加瀬がスマホでマップを見ながら歩く。莉子はその隣をついていく。
駅から歩いて数分の場所にある、水族館。
どこに行くか決めていなかった今日の朝、加瀬が提案してきた場所だった。
「チケット、ウェブで買っておいた」
「…ありがとう」
建物に一歩足を踏み入れると、外の喧騒がふっと遠のくような、少し冷たい空気。
水槽の色が濃いからだろうか。
「…初めて来たかも」
「俺も」
水槽の青い光が天井や床に反射して、壁のディスプレイに淡い海の色が揺れる。
入ってすぐにある水槽に引き込まれるように近づいて、ガラスの奥の魚を見つめる。
「何でここにしたの?」
「え、デートといえば水族館だろ」
「思考が単純すぎて」
「動物園の方がよかった?」
「少女マンガじゃん」
「バカにすんなよ少女マンガ、普通におもしろいだろ」
そういえば妹が二人いるんだったな、と莉子は高校の時に聞いた記憶を思い出す。
借りてるのか自分も買ってるのか、体育会系のこのガタイで少女漫画を読んでいると思うと口元が少し緩む。
「乙女メルヘン大男じゃん」
「知らん悪口言うなよ」
莉子が笑っていると、加瀬が水槽を見つめたまま、ボソリと言った。
「昨日は無理させてたらごめん。今日は楽しく行こ」
「え…」
加瀬はコートのポケットに手を入れ、後ろにいた親子に水槽の前を譲った。
それを見た莉子も、加瀬の背中を追う。
きっとこの人は、私が選ばない限り、踏み込んでは来ない。
圧をかけて来ない。
そして、もし選ばなかったら、二度と、
「イルカショーやるって、あっち」
「あっ、うん、見たい!」
エスカレーターを上がり、矢印の指す看板の通りに進む。
円形のプールをぐるりと取り囲む客席が並んでいる。
人の流れに沿って客席に向かいながら、前で進んでいる加瀬に莉子は言う。
「加瀬、前行ってきてよ」
「やだよカッパ持ってねーもん」
「持ってたら行くんだ」
ちょうど始まる少し前だったらしく、席はほとんど埋まっている。
結局、後ろの方の席に落ち着いた。
横並びで座り、ショーが始まると、加瀬はスマホを構えて、イルカが跳ぶ瞬間を動画に収める。真剣な顔で、少しだけ口が開いている。
莉子はその姿を横目でちらりと見た。
こういうので、動画撮るタイプなんだ。可愛い。
…可愛いって、思った?今、私。
加瀬に?
「おー、すげー!」
観客の拍手と歓声に合わせて隣で加瀬が呟く。
純粋に楽しんでいる姿を見て、少しだけ背中の筋が緩んだ気がした。
好き、なのかもしれない。
昨日、加瀬が傷つくんじゃないかと思った。
先輩のことを言ったら、諦める選択肢を取るんじゃないかとすら、思った。
確実に、それを危惧して、躊躇った自分がいた。
でも私、先輩のことは、嫌いになることは、多分ないの。
先輩のことは、思い浮かべようとすれば、すぐ顔も声も浮かぶ。
好きだった気持ちも、尊敬している気持ちも、ちゃんと残っている。
加瀬といると、楽しくて、よく笑って、先輩とは違う安心感があって、長く続いた、友達、という歴史があって。
比べられない。どっちも、違う。
ショーが終わって、人の流れに乗って歩いていると、莉子のポケットの中で、スマホが震えた。画面を見て、一瞬、息が詰まる。
【日曜のチケット取ったよ】
念押しみたいなタイミングだなと思った。
この短い一文を、断れないし、断りたくないとも思う自分もいる。
どうして、こんなふうになるんだろう。
普通は、もっと分かりやすい理由があるものじゃないの?
どちらかを選べるような、決定的な出来事とか、嫌だと思う瞬間とか。
でも、それが、見つからないの。
どうやって考えればいいのか、分からない。
イルカショーを見ていた人の流れに続いて歩くと、混雑もそのまま連れてきてしまう。着いた時よりも増えている人混みの中で、加瀬が足を止めた。
まっすぐな目に見つめられ、思わず莉子は視線を逸らす。
青く着色された床は、暗くて黒と見分けがつかない。
「…手、つなぐ?」
「……なんで聞くの」
「勝手に繋ぐのは違うかなって」
隣の水槽で、クラゲがふわりと舞っている。
濃紺の気配の中に、それが白くやけに目立つ。
「昨日は、聞かなかったじゃん」
「そうだっけ?忘れた」
青い光だけが静かに空気を震わせる。
ゴボゴボと、水槽に酸素を吐き出す機械が近いのかもしれない。
まるで、海の底を歩いているようだ。
「で、つないでいい?」
「…いい、けど」
嫌じゃない?と聞いてくれれば頷けるのに。
そんな考えが浮かんで、消えた。私も大概、ずるい。
加瀬の身体がふわりと近づいて、いつもの香りがした。
指先をそっと持たれて、握るか握らないかの力で、優しく絡まった。
みんな、水槽しか見ていない。
そのまま、魚のように影になって、この手も、隠してくれたらいいのに。
「…あっち、ペンギンだって」
照明は海の中の光を模しているのだろうか。
白や青、時には暖色が動いて、光と影を反転させている。
「うん…」
「見る?」
足音がタイルに反射して、小さな波紋みたいにリズムを刻む。
隣で、魚が莉子の頭上を通っていく。
「うん…」
こんなところに来て、こんなふうに手を繋いでおいて、私は来週、別の男の人と出かける。それって、最低じゃない?どちらも好きで、どちらも手放せないなんて、どうかしてるよ。
ざわざわとした館内に、水も光も、魚も、全てが揺らめいて、反射していく。
私だけが、ここで溺れているみたいだ。
ごめんと言いかけて、飲み込んだ。何がごめんなんだ。謝ったって、何もならない。
答えは出ないまま、水槽の青い光だけが、静かに揺れていた。