ひとつの秩序
シェアラウンジを出ると、もう夜に向かう途中みたいだった。
駅方面に少し歩くとネオンや居酒屋、チェーン店が立ち並んで、どこかから流れてくる美味しそうな匂いが混ざって、空よりも明るかった。
「この辺、適当に入ろっか」
片倉がそう言って、ビルの二階を指差した。
小さいエレベーターで上がり、ドアが開くと、すぐに笑い声とグラスがぶつかる音がする。いらっしゃいませーと出てきた若い店員が片倉に言う。
「今ほかが空いてなくて、二名様用のお席で大丈夫ですかー」
「大丈夫です」
「ではこちらへどうぞー」
間延びした声の店員に二人でついていき、店員が指した個室のような空間に片倉が先に入った。店員はさっと去っていき、薄いカーテンをめくった先の空間に莉子は少し固まる。
横並びのテーブルの席。
これ、カップルシートみたいなやつじゃない?
今他が空いてなくて、でも二名様用の席って、言い方が変だなと思ったけど、そういうこと??
少し固まる莉子に、片倉は手招きした。
その顔が少し笑っているのは気のせいではない。
「早くおいで」
「…先輩、わざとですか?」
「まさか。初めて来たし、店員さんの言葉聞いてたでしょ」
背後を店員が通る気配がして、莉子は渋々片倉の隣に座る。
「…近くないですか?」
「別に近くしてないよ、席が狭いだけ」
片倉がメニューを見ながら飄々と言ってのける。
L字の席に沿うように置かれたテーブルに、店員が薄いカーテンをめくっておしぼりと水を置いて去っていった。
「今週のデート、楽しみだね」
「ぅえ、あ、は、はい」
「可愛い格好してきてね、いつも可愛いけど」
「ぅあ、あ、あの」
片倉は莉子を見てニコリと笑った。
頬杖をついて、首を少し傾げている。片倉は、何か食べたいものある?と聞くも、莉子はとても食べたいものを考えられそうになく、お任せしますと消え入るような声で呟いた。
「じゃあ適当に頼むねー」
「はい…」
片倉が店員に頼むメニューを固まったまま莉子は聞く。伸びた背筋がなかなか戻らない。近い距離で交わされる会話の声と、グラスが置かれる乾いた音が聞こえてくる。
「緊張してる?」
「はい…」
店員がいなくなってから、片倉の視線は莉子に注がれたままだ。
莉子は見返すこともできず、テーブルの隅に見つけた傷を見つめ続けるしかない。
「ごめんね、もう俺、がっつり攻めるからね」
「…そうなんです、か…」
「なあに、その返事」
「……なんでそんな急に…」
奥からは焼き物の匂いと、少し甘い出汁の香りが混ざって流れてくる。
裸電球に近い照明が吊るされていて、人の顔だけをぼんやり浮かび上がらせる。
「えー、好きな子を手に入れたいから?」
「も、もうやめて下さい、し、ごとの話、するんじゃないんですか」
「その予定だったけど、予想外に良い席に案内されちゃったからさ」
別に、誘った時はこんなこと考えてなかったよ?と片倉は言った。居酒屋の空気と同じような軽さで、口説いているとは思えないような調子で言われる甘い言葉に、莉子はついていけない。
「唐揚げですー」
唐突にカーテンが開けられて料理がいくつか置かれた。
そんなにカーテンを雑に開けるなら、席につけなければ良いじゃん、と見当違いな方向に意識を向けようと莉子は必死だ。
「食べよ、南が好きな唐揚げも来たよー」
「っ、シーザーサラダを食べますっ」
「可愛いねー」
「ぎゃー!もうやめて下さいっ」
薄いカーテンの奥でサラリーマンが飲んでいる席が見える。大きな笑い声が響いてきて、それがとてもなぜか安心してしまう。
目の前の料理を、食べることに集中しよう、そう思って取り皿に自分の分を取った。片倉はクスリと笑って、莉子と同じようにした。
「ちゃんと美味しかったね」
「美味しかったです」
食べている間は先ほどの仕事の話に戻り、片倉が言語化してくれるものを噛み砕いて、想像して、自分の考えに落とし込んでいく。
改めて片倉の理解や思考のスピードにはついていけないなと思うと同時に、悔しい気持ちも湧き出てくる。
「…先輩みたいになれるように頑張りたいです」
「ふっ、どうしたの」
「すごいなあって思うことばかりです、片倉先輩といると」
「…ありがと」
その言葉が耳に届いたと同時に、太ももの横で、片倉の手が触れる。
すぐに指が絡まって、指先を軽く握られる。
浮いた小指を優しく撫でられて、手の温度が一気に上昇する。
「…待って下さい、私もう、」
「ドキドキしてる?嬉しいなー」
熱くて逃げられない。
まるで一瞬のうちに、針で刺されたみたいだ。
「せんぱ、ほんとに、っ」
「ふりほどいても良いんだよー」
「ほ、ほどきますっ」
どこかのテーブルで椅子を引く音が、近くで鳴っている気がする。
莉子は手を少し勢いをつけて離した。
片倉の方は見られない。
「今日、見たよ」
「え…?なにをですか?」
少しだけ、丸みを失ったような声。
唐突に言われた言葉に、莉子は思わず片倉を見た。
「昼」
「…あ、え、」
笑い声が近い距離で弾けて、すぐに別の会話に溶けていく。
後ろめたい気持ちがじわりと広がって、居酒屋の影に取り込まれていくみたいだ。
「前言ってた、友達?」
「あ、…はい…」
「イケメンだったねー」
「…あの、」
どこかで注文を復唱する店員の声が聞こえてくる。
こんなにも片倉から目が離せていないのに、余計な雑音ばかりが耳に入る。
「でも、俺の方を意識してもらわないとね」
片倉がL字ソファの淵から、莉子の方に身を寄せた。
莉子は動けない。
片倉がまた、膝の上に置いてあった莉子の手に触れた。
乾いた長い指が、するりと莉子の指先を伝って、大きく弧を描いてまた指先に戻っていく。
昼間の加瀬の手の感触は、もう、思い出せない。
日差しが差し込む中、柔らかく、全体を覆うように包まれていたはずなのに。
「せんぱい、近い、です」
片倉が足を組み替えた。
軸足が、莉子の太ももに当たる。
「うん、近くしてるからね」
片倉が言った。
指先はずっと静かに、滑らかに莉子のそれを伝う。
「せんぱい、もう、ほんとに…っ」
目線を上げたら片倉が視界に入り、下げたら繋がれた手が入ってくる。
目の前の壁を見つめることすらできなくなって、莉子は目をぎゅっと瞑った。
ああ、こんな状態で、私、先輩とデートするの?
片倉が顔を少し動かした気配がした。
ニットが擦れる音がする。
「好きだよ、南」
片倉は莉子の耳元でそう言った。
声が、鼓膜に張り付いたかのようだ。
脳まで侵食されているようだ。
熱が、耳に残る。
「…待ってるから、俺のとこ、おいで」
ああ、猛毒のようだ。