ひとつの秩序
三月最初の日曜。
先日とは打って変わって、気温は低い。
暖かかった日を挟むだけで、平年並の気温がやけに低く感じられる。
駅を出ると、髪の毛が顔にかかった。
改札の向こうで片倉がもう待っていた。
少しだけオーバーサイズの黒のチェスターコートは、会社では見たことがない。
黒のピタッとしたパンツが足に沿っていてスタイルの良さが目立ち、柔らかそうなグレーのニットに合わせてある首元のベージュのマフラーに顔を埋めている姿はギャップを感じさせる。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
「近かった?どっちで来たの?」
「割と。日比谷線です」
「そっか、俺は大江戸線」
大通りに面した道路を歩いて、美術館へと向かう。
好きな展示が行われることも多く、何度か一人でも足を運んだことのある場所だが、まさか片倉と休みの日に来ることになるとは思わなかった。
「先輩は、ここ、よく来ますか?」
「うん、割と。夜遅くまで空いてるから、仕事終わりに来ると空いてていいんだよね」
「なるほど、確かにじっくり見れそうです」
普通に話している分には、先日のことなどまるでなかったかのようだ。
莉子も戸惑いつつ、仕事の時のような片倉には気軽に話せる。
「今度、一緒に行く?」
「…考えておきます…」
「お、かわすようになったねー」
片倉のペースには今日こそは惑わされないぞと意気込んで家を出たはずだったが、予兆なく飛んでくる言葉を全方位警戒できるわけがない。
「…お昼は家で食べてきましたか?」
「なにその話題変換。家で食べてきたけど」
笑いながら片倉は莉子を見た。
東京のどこからでも見えそうな高層階のビルに入る。
エレベーターを降りた瞬間、街の音が切り離されて、空気が変わるのが分かる。
天井は高く、視界を遮るものがほとんどない。
白を基調にした空間に、ガラスと光が多い。
「ここ、来るたび好きだなって思います」
「そうだね、俺も好きかな」
壁はあるのに、区切られている感じがしない。
「白が、多いですよね」
「視線を散らしてるんじゃないかな」
「どういうことですか?」
「正面に強いものを置くんじゃなくて、人が勝手に歩きながら、選ばされるような感じなのかなー」
足を進めると、確かに目をひく大きな作品はない。
模型、スケッチ、写真、映像。それぞれが少しずつ、距離を保って置かれている。
「展示って、普通はここを見てくださいってやるでしょ」
「はい」
「導線が…ゆるいっていうか。立ち止まる場所が、人によって違う」
言われて気づく。
誰かは模型の前で立ち止まり、誰かは壁の図面を眺め、誰かは窓際に寄って外を見ている。
「すごい…」
「ゾーニングと導線設計だねー」
片倉はそう言いながら、莉子の手を取った。
するりとそのまま指先が絡められ、恋人繋ぎになり、コートを着たままの片倉のポケットに入れられる。
「ぅえっ」
「嫌だったらいつでも離していいからね」
先ほどとまるで同じ調子で言う。
莉子は何も言えず、視線を逸らすのみだ。
こないだの居酒屋みたいに、ただ繋がれただけではなくて、片倉のコートのポケットに繋いだ手が入ることで、身体も自然と近くなる。歩幅も同じになり、歩いただけで身体がぶつかる。
ポケットという密室空間に入れられた手が、異様に熱い。
そのまま次のエリアに進むと、細かいスケッチが何枚も貼られていた。同じ形なのに微妙に線が違い、莉子はそれを覗き込む。
「ここ、寸法変えてるね。あー、多分、視界の抜けとかを調整してるんじゃないかなー」
「…すごい」
「ミリ単位だからねー、建築は」
片倉が指差した場所を改めて見つめる。
サラッと見ただけでそんなことまでわかっちゃうんだ、と胸が熱くなる。すごいという感情が追いつかない。こういうところで、建築学科を出ている圧倒的な知識と経験の差が出てくるんだろうか。私は、いつかこの人みたいになれるだろうか。
「…すごいです、ほんとに」
「はは、ありがとう」
片倉がチラリと視線を外して他の展示に目を向けたのを見て、莉子は言う。
「あの、先輩、見たいところ見てきてもらって、いいんですけど…」
「なに?手、離してって?」
「…いや、私に合わせてもらうのは、あれかなって」
「南がそうしたいなら良いよ、俺は繋いでたいから大丈夫」
日曜だからなのか、展示内容が多くの人に刺さるのか、混雑している気がする。
でもザワザワと煩くはない。全員が集中して見ているからだろうか。
足元のタイルは、不自然なほど白く、汚れがない。
「…困ってる姿も、堪んないけどね」
展示から目線を下ろして足元を見つめる莉子に、片倉が少し笑いながら言った。
声は小さい。身体の距離も近くて、聞き逃すことは許されないみたいだ。
「……ヘンタイじゃないですか」
「男なんてみんな、好きな子にはヘンタイだと思うよ?」
あの子もきっとそうだよ。
心の中で思いついた言葉を、片倉が声に出すことはない。
幸いにも、目の前の彼女のように、考えたことをそのまま口に出すタイプではない。
他の男のことなど、一ミリも思い出さなくていい。
じわりと熱を発する彼女の手を、少しだけ力を入れて再度掴んだ。
これを見越して、このコートを着てきたんだから、ダメだよ。
「南、」
写真と映像が中心の展示室で、写真をじっと見つめていた片倉が、莉子を呼んだ。
軽く指差したその写真を莉子も見つめる。
「完成写真じゃなくて、こっち」
「?」
完成後の建物の隣に並べられた、少しブレた写真。莉子は指を指されただけでは片倉の意図は読み解けない。
「多分、この人が座ってる位置、設計段階では想定されてない」
「え、」
「でも、こうなることを予想してたというか、こうなってもいいと思ってたんじゃないかな」
「どういうことですか?」
「そのために、余白を残してあるっていうか」
「…使う人に委ねてるってことですか」
「かなって」
設計者が全てを決めない。
語彙力が消滅してしまったかのように、莉子の今日の脳内は、なるほど、すごい、さすが一色だ。合コンじゃないんだから、と自分に少し呆れる。そんなチープな言葉で表したくないのに、自分の中でこれ以上のものが出てこない。
「楽しいです、こういう話。仕事じゃないところで聞くの」
「はは、俺すごい?」
「すごいです、本当に」
「好きになった?」
「…っ」
展示室のタイルが、どこまでも白い。
上からの照明と相殺されて、境界が分からなくなってしまいそうだ。
「顔、赤いね」
「…誰の、せいですか」
「おっ、慣れてきたね。それもまたいいね」
「…ヘンタイじゃないですか」
「だから否定してないでしょ?」
この白い空間の中で、莉子だけが赤いのかもしれない。
片倉の黒いコートの影に、何もかも覆ってもらったら楽になるかもしれないのに。
「俺のせいで顔が赤い南、可愛いよ」
「…やめてください」
「ごめんね、つい」
きっと、夜はもうすぐそこまで来ている。
ひとたび外に出てしまったら、もうそこは影と闇しか存在しない。
耐えられない、かも、しれない。
莉子はそう思いながら、目の前の数字と図形に、必死に視線を集中させた。