ひとつの秩序
 
 
 
 
カーテンの隙間から差す光が明るくて、目が覚めた。
リビングに細長く伸びているそれをぼうっと見つめながら、莉子は目元を少し擦って、手についたラメを見つめる。昨日、そのまま寝たんだった。

朝。加瀬の、家だ。

昨日は、そのまま加瀬の家に泊まった。
思ったよりも、長い夜だった。


あの後、しばらくして寝息が聞こえてきて、帰ろうと最後に顔を見たら、顔が赤くて、先ほどよりも熱が上がっているようだった。

冷蔵庫と寝室を何度も行き来しながら、スポーツドリンクを冷やして、おでこに冷却シートを貼って、ぬるくなったらそれを変えて、買ってきておいた冷却ジェル枕にタオルを巻いて、頭の下に入れたり、変えたり、体温を確かめたり。

起きるかもしれないと思いつつ加瀬に触って看病していたが、加瀬の目が開くことはなかった。
途中むくりと起き上がったので水を飲むように勧めた時も、素直に飲んで、またすぐに寝ていった。

コタツで寝たので、足元は暖かかった。たまに冷える上半身もコタツに潜り込んで温めた。
床は絨毯が敷かれていたが柔らかいわけではなく、身体はあちこちが痛く、首元は寝違えたような違和感があった。

スマホの時計を確認すると、八時だった。
なんだかんだ途中から、自分も熟睡してしまったらしい。

会社はリモートに切り替えたいところだけど、今日は遅れて行こう。
元々フレックスだし、午前は会議などもないし、問題はない。


「…なんで、いんの……」

掠れた声が聞こえて、莉子ははっとして顔を上げた。
寝室の引き戸が少しだけ開いていて、加瀬が壁に手をつきながら立っている。

髪は乱れていて、顔色もまだあまり良くないように見える。

「起きた?調子はどう?」
「…帰んなかったの」

半分、寝ぼけたような声だった。

「帰ろうと思ったんだけど、ごめん、熱高かったみたいで…」
「…良いのに、俺のことなんか」

ぽつりと落とされた言葉に、莉子は眉を潜めた。
加瀬は視線を落として、壁に手をついたままだった。
莉子は立ち上がって、テーブルの上のスポーツドリンクを手に取って渡す。

「良いわけないでしょ。病院、行きなね」
「…うん、この後行くわ」

加瀬は口に手を当て、一度咳払いをしてから莉子が渡したドリンクを飲んだ。ごくごくと喉が動く様子を見つめる。

「…看病してくれたの」

加瀬の視線は、テーブルの上に注がれていた。
ペットボトルと濡れたタオル、冷えピタの袋が置かれたままだった。
コタツのめくれた布団とそばに置かれた枕を見て、また莉子に視線を戻した。

「うん…ごめん、勝手に。熱上がってて、辛そうだったから」

コタツでうとうとしながら、何度も、同じ夢を見た気がする。
加瀬の匂いの中で、眠ったからだろうか。

「…仕事、大丈夫?」
「うん、遅れて行く。加瀬は休むって連絡した?」
「昨日もうしておいた。ありがとう」

化粧を落としていない顔をあまり見られたくなくて、莉子は視線を外した。
もうここにいる意味は無さそうと思っていると、加瀬が冷蔵庫を開けた。

「…プリンあんじゃん。ありがと」
「好きでしょ。何かお腹に入れてから病院行きなね」

コートを手に取ると、莉子の動きを見て加瀬は言った。

「送ろうか」
「何言ってんの、病院行く準備しなって」

ごめん、と呟いて加瀬はソファに力無く座った。
鈍い音がして、ソファが沈む。


「…なんで、そんな優しくしてくれんの?」

不意に低い声が落ちてきて、莉子は視線を戻す。


「何でって…別に優しくなんか…優しいのは加瀬でしょ」

莉子がそういうと、加瀬は小さく笑った。

「俺?…俺が?…俺のどこが、優しいんだよ」
「え…?」

加瀬は一瞬、視線を床に落とした。
暖房が効いていない部屋は、少しだけひんやりしている。
カーテンの隙間からは、先ほどよりも、光が長く伸びている。


「友達のままでいたいって思ってる南のこと、分かってて、自分勝手に距離詰めて、戸惑わせてる、俺が?」


莉子は加瀬の言葉に、思わず首を振る。

「…ちがうよ」
「……なんも、違わねーよ」

加瀬は、ぽつりと言葉を一つずつ落とすみたいに続けた。

「ごめん、我慢できなくて」
「なんで、そんなに謝るの」

私には、謝らなくて良いって、いつも言うくせに。

加瀬は少し困ったように笑った。
何かを諦めたように見えるのは、部屋がカーテンで、薄暗いからだろうか。

「…もう、癖かもな」
「…?」
「…後ろめたいからかな」
「どういう…」

莉子は動けない。
靴下を履いているのに、床からは冷たい膜がじりじりと上がってきているみたいだ。


「初めて会った時から、お前は他の男と付き合ってたし」


加瀬の声は、責めるでもなく、淡々としていた。
近くを通る車の音がする。鳥の声がする。カーテンから漏れ出る光が、こたつに細長く差している。

「最初っから、他の男のもんだったから」

莉子は、胸元に置いた自分の手を力を込めて握る。
朝が、始まる音がする。
加瀬は、少しだけ息を吸って、吐いた。


「……手に入る想像なんか、……ついたことねーわ…」


冷蔵庫が低く唸っている。
蛇口から、我慢できなかったかのように垂れた水滴が、シンクに小さく音を立てた。

莉子は、何も言えなかった。
加瀬もそう言った後、黙って静かにソファに座っていた。
視線はずっと下に注がれていて、目は合わなかった。

しばらくした後、加瀬が沈黙を破った。

「…ごめんな、…ずるくて」
「…なんで、あやまるの」
「……家に上がるなって、どの口が言ってんだろうな…」

かせ。名前を呼んだはずが、音にならなかった。
喉の奥が、少し乾く。途中で暖房が切れた、夜の名残がまだ残っていた。


 
 
 

< 63 / 123 >

この作品をシェア

pagetop