ひとつの秩序
 
 
 




シャワーを浴びて、着替えて出勤した。
少しだけ肌がピリついて、乾燥して、背中が痛い。
昨日の全てを、身体が物語っていた。

シャワーを浴びる時、ふわりと髪から加瀬の匂いが香った気がした。気のせいだろうか、それとも、私の心の中の願いだろうか。
 
少しだけ遅刻して、いつもよりも一時間遅い十時に会社に着いた。

「おはよう」
「おはようございます」

フレックスで、いつ出勤してもよく、リモートでも良い。途中で外出したり休憩を挟むのも問題ない。けれど、少しだけ身体に緊張感が残るのは、少しの後ろめたさか。
それが顔に出ないように、いつも通り片倉に返事をした。

「珍しいね、今からなの」

なんか夜詰まってたっけ?と片倉がモニターから目を離して言った。
いつもの穏やかな顔だ。

「なんかあった?」

ただの確認だとわかっている。
けれどその目に見つめられると、いつも少しだけ調子が狂う。
胸の奥が、ひくりと動く。

「いや、あの、ちょっと体調を」

脳を通らないまま言葉が発され、空気に乗った後に違うと分かる。
聞かれるかもしれないことくらい予想できたはずなのに、どうして何も考えていなかったんだろうと視線が上に泳ぐ。

「体調?悪いの?」
「いえごめんなさい違います、間違えました」
「…なに隠してるの?」
「かくしてないです」
「ふーん?」

片倉が椅子に座ったまま、視線をじとりと莉子へ向けた。
コート置いてきますと莉子はロッカーに逃げる。背後から向けられているであろう視線がじりじりと痛い。静さんと同じくらい圧が強いんじゃないだろうか、そんなふうに気持ちを逃すしか今は術がない。



荷物を置いてデスクに戻る頃には、片倉はもうモニターに向かっていた。
それに心底ほっとして、莉子はデスクに戻ってパソコンを開く。

【病院、終わった。薬もらえた】
【良かったね。お医者さんは何て?】
【風邪でしょうって】
【そっか、今日はゆっくり休んで】

仕事をしながら時々スマホを確認していると、加瀬からメッセージが来ていた。
病院で診てもらえたなら、もう大丈夫だろう。そう思い、莉子は仕事に集中した。





「南、今いい?」

十四時ごろ、片倉が隣から莉子に話しかける。
莉子はマウスを持つ手を止めて、大丈夫ですと返す。

「ちょっと話したいことあるんだけど、あっちの部屋行ける?」
「わかりました」
「会議室は埋まってたから、奥の部屋ね」
「はい」

シェアスペースの上に見える、ガラス張りの会議室は使用されていた。
その奥の部屋はごく普通の、白い影に囲まれた小さな部屋だった。
外の気配はほとんど入ってこない。




「久我からチラッと聞いたと思うけど、コンペ決まったから。南に入ってもらうからね」
「え!わかりました!」
「今回、短期だから。ゼロからっていうよりある程度の要望はまとめられてるから、二週間後には仕上げるよ」
「わかりました」
「じゃあ資料送るね、久我にも入ってもらうけど、メインは俺と南でやるから」

そう言いながら片倉は資料を莉子に共有した。画面を共有しながら確認をして、役割とスケジュールを決めて、仕事の話はいつも通り進む。
片倉から言われた言葉を必死に自分の中でまとめ、メモで残していた時だった。

「…体調、悪かったの?」

小さな白い、よくある会議机。
莉子がパソコンから顔を上げると、片倉がテーブルの向かいから莉子を見ていた。

「え、あ、いえ、全然。元気です」

視線が合い、反射でへらりと笑いながら莉子が答える。


「…じゃあ、友達?」

自分の表情が固まったのが分かる。
片倉の目線は、いつもより鋭くて、全てを見透かされているみたいだ。

「いえ…」
「看病してたの?だから遅れてきたの?」
「いや…」
「友達の家にいたの?」
「えと…、」

片倉は少し考えるように視線を外して、それからふっと笑った。

「朝までいたの?」
「なんというか、その」

なんか、声が、いつもより低くて、にこやかなのに、笑っていなくて、

「…いけない子だねえ」



空調の音が、やけに大きく聞こえる。
つけっぱなしのプロジェクターのファンが低く唸っていて、先輩の声が、浮き上がってくるみたいだ。

「あ、あの、何も、別にない、ですよ」
「何かあったとは思ってないけど」
「は、はい」
「俺が困るかな、何かあったら」
「は…」

真っ白な壁に、スライドの残光がうっすら残っている。
テーブルの上には資料とペンがそのままで、さっきまでの仕事の話をしていたことの証明なのに、今の空気はそれが嘘みたいだ。


「…俺、付き合ったら、めちゃくちゃ甘やかすよ」
「……も、やめてください…」


蛍光灯の白い光が、均等すぎて逃げ場がない。
目の前のパソコンを見ても、なんの文字も頭に入ってこない。


「やめないかな。今朝まで、他の男のところにいたんでしょ?」
「かん、びょう、なので」
「妬けるねえ」

片倉は言葉を切った。
少し視線を流し、考えるようなそぶりを見せた。


「俺が南のこと好きって分かってて、そういうことするんだ?」
「…っ」
「やるなら、バレないようにしてくれないと」
「ご、ごめんなさ、」

自分がなんで謝りの言葉を口にしているのか、わからない。
片倉のことを見ていないはずなのに、視界に入ってくる。

「俺と付き合ったら、どうなると思う?」
「…どうなる…」
「南が好きそうな休日、想像つくけどね。美術館も、たくさん一緒に行けるね」
「…そうですね…」
「……ふ、嘘だよ。メリットで恋愛するべきじゃないからね」

片倉はパソコンを閉じた。
なんてことない動きに、莉子の背中が少しだけ跳ねる。

ちらりと片倉に視線を送ると、片倉は机に頬杖をついたまま、莉子を見ていた。
中央で分けられた前髪が、片方の目にかかっている。


「でも、どろどろになるまで、甘やかしてあげるよ」
「…っ」


外の音が、まったく聞こえない。
廊下を歩く足音も、電話の呼び出しも、コピー機の音もなくて、ここだけが、会社の中から切り取られたみたいだ。

「…そろそろ戻ろっか」

莉子は片倉の言葉に、息を吐いた。目の前のパソコンに手をかけると、手にはじとりと湿っていた。さっきまでの仕事の内容が、全然頭に残っていない。


「赤い顔、治してからおいで」

片倉の言葉に、莉子は勢いよく手を頬に当てる。
熱い。その様子を見て、片倉はふ、と笑って椅子から立ち上がった。

パソコンを持ち、そのまま会議室を出るかと思いきや、莉子の後ろに回り込む。
その様子を見つめる莉子の後ろに立った。

「みなみ、」

椅子に座ったまま、振り返る莉子の耳元に、ふわりと片倉が近づいた。

近い。耳元に、息がかかる、


「好きだよ」


ぞくり、

全身に電気が走ったみたいだ。
声だけで、輪郭が溶かされていくようで、


「友達、お大事にね」
「……はい…」

片倉が、何事もなかったかのように部屋を去って行った。
ドアの閉まる音が、やけに大きく聞こえる。


——あの人は、こんなふうに、今まで、口説いてきたんだろうか。


莉子はしばらく動けない。
ふう、と息が漏れて初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。

怖い、抗えない、これはきっと理屈じゃない。

 
 
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