ひとつの秩序
 
 
 
 
俺は、自分が怖い。




望実と上手くいかなくなったから、南に逃げたわけじゃない。
出会って、付き合って、同棲して、ほのかに自分の中に存在していた庇護欲を、後輩だからと決めつけて、見ないふりをしていたうちは良かった。

望実は、正しかった。
自分がないわけではないのに、意見と主張を求められるのはしんどくて、そんな時に、きみが、俺を丸ごと受け入れてくれることに流された。

——「…南は、いつも素直でいいね」
「え、そうですか?」
「うん、ずっと素直で、ずっと、可愛いよ」——

あの時、ポロリと漏れてしまった言葉が始まりだったかもしれない。
何を言ったのか自分でも分からず、避けて、それでも惹かれて、手に入れたくなって、自制しようとしても、自分が止められなかった。


——「…ダメだよ。弱ってる男にそういうこと言ったら」——

彼女のせいにするみたいに、衝動のままに触れて、謝罪の言葉だけ残して、また見ないふりをして、

それでも、我慢できなくなったのは、彼女が、他の男に惹かれ始めていると気づいたからだ。

今の状態を変える勇気がなくて、望実にも別れを告げることが出来ないまま、手を伸ばしかけて、やめて、声をかけて、また引っ込めて、


——「一緒に行く?」
「友達、誘ってみます」
「…そっか」
「はい、先輩は彼女さんと行ったりしますか?」——


俺を置いて、俺がいなくても大丈夫なところに成長していくことを、見てられなくなった。


——「…俺のこと、ずっと好きでいてよ」
「もう、俺のとこには、来てくれない?」——


なんて滑稽なんだ。眩しいほどの彼女の好意に気づいていて、突き放すように、見ないようにしたのは自分じゃないか。

俺は、自分の知識を吸収して成長していく彼女を眺めるのが心地よかった。
教育や、仕事という名目で合法的に彼女を独占して、自分の色に染めていく悦びを感じていた。

壊すのが怖かったくせに、彼女が俺の手から離れて行こうとしたことに無性に焦って、自分に向けられていた視線が、休憩時間のスマホに向けられていたことに気づいて、

俺の手から、こぼれ落ちていく。

強引に手を握って、耳元で囁いて、強制的に自分に向かせている。
きっと、「友達」は尊重してくれているんだろう。
テラスで握っていた手は、控えめだったね。俺は、なんて傲慢なんだ。



逃したくないと思った瞬間は、いつだっただろうか。
…でも、多分、最初から好きだった。

気になって、可愛くて、守ってあげたくなって、真っ直ぐ育ててあげたくて、そんな上司としての気持ちとプライドが、自分の本心を隠していた。

逃げるように登録したマッチングアプリで、望実に惹かれたことは事実だけれど、多分、ずっと心の隅には彼女がいた。

そして、それにずっと救われていた。

きちんと向き合っていれば、もしかしたら隣にいたのかもしれないのに。
あの時の、真っ直ぐな輝きごと、俺のものになったのかもしれないのに。


花に水をやっていればいいと、育てていた気になっていたけれど、その成長に救われていたのは俺で、

その花をいつの間にか愛でて、誰にも触れさせたくないとまで支配していたくなって、


俺が、育てた花。

その可愛らしさを広めたいのに、花を摘もうとする奴がいたら許せない。
花が、余所見をしようとしたら、焦って、仕事という部屋に囲って、


何よりも、そんな俺が一番醜いよ。
ごめん、全然憧れられるような男なんかじゃない。

でも、それでも、南のことを、手にいれたい。




まるで、蜘蛛のように執念深いなと、片倉はドアを閉めてから自嘲する。
手に持ったパソコンは、ずしりといつもより重い。

南の周りに、糸を張って、どれかに引っかからないかと待ち構えている。

デスクに戻り、ちらりと吹き抜けの奥を見つめる。
あの様子だと、しばらく戻ってこないかもしれない。

背中の窓ガラスからは、外の太陽の光が差し込んでいる。
今の自分には、眩しくて、熱すぎる。

片倉は立ち上がってブラインドを閉めた。
光量が調整された今も、それの継ぎ目からは莉子のデスクに細い線となって光が差していた。

 
 
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