ひとつの秩序
頭がぼうっとする気がする。なんだか喉も痛い。
そう思いながら起き上がる。
あー、移ったかもしれないな。
頭に思い浮かぶのは、加瀬の家だ。
こたつ温かいし、人の家の暖房勝手につけるのもなー、三月だしなーと、そのまま寝てしまったのが完全に良くなかったのだろう。
まだ完全に熱がある感覚もなく、少し早めに帰って病院に行けばいいかと思い、いつも通り身支度をして、マスクをして会社に向かった。
「今日はコーヒー飲まないの?」
「おはようございます…」
昨日あれだけ会議室で熱を囁いてきたとは思えないほど、爽やかに、にこやかに話しかけてきた片倉に莉子は少し恨めしい顔をしながら挨拶をする。
手にタンブラーを持った片倉がいつもの右隣の席に座る。
「珍しいね」
「なんか気分じゃなくて」
「ふーん?…体調悪い?マスクしてるけど」
「あっいえ、花粉です」
「そう?」
極力動きたくなく、面倒な気持ちが強くて基本的に午前中はデスクから動かなかった。朝も何も食べていないので空腹ではあるのだが、喉も痛いのであまり食べる気にはならず、昼の時間になっても莉子はデスクに残ったままだった。
「南、お昼は?」
「あとで食べることにします」
「…コンペ、まだそこまで詰めなくていいよ?」
「うーん、はい」
片倉は莉子の返事を聞いて、少し黙ったあと、ちょっと来て、と莉子に手招きをした。バレたかもしれないと思いながらも、莉子はその後を黙ってついていく。
「風邪ひいてない?移ったんでしょ」
「…やっぱバレますか」
エレベーターホールの奥、階段の踊り場に連れてこられ、片倉はそう言いながら莉子の額に触れる。いつものように動揺する余裕もあまりなく、冷たくて気持ちいいなーと思いながら莉子は返事をする。
「熱あるって。なんで来たの」
「朝は熱ないと思ったんですよ…」
「帰りな。今日は打ち合わせもないし」
「でもコンペのこと考えたい…」
片倉は莉子の返事を聞いて、額に当てていた手を頬にずらし、そこの熱も確かめるようにした後にそっと離れた。
「熱ある頭で考えても良いもの出ません。考えるだけならベッドでできるでしょ。今日はもう帰る。家まで送ってあげようか?」
「大丈夫です…」
ため息まじりに言う片倉は、仕事モードだ。
指導されるみたいな口調で言われると、反論する気にもならず、頷く。
「じゃあ、すぐ帰りな。心配だから。早く治して」
「わかりました…」
そんなに分かりやすかったな、普通に午前は仕事できてたと思うんだけどな。
莉子が少しシュンとしているのを見てか、片倉は、ふ、と軽く笑って、莉子の頭に手を乗せた。
「好きな子だからね」
考えていることまで、分かりやすいのだろうか。片倉の言葉にどんな顔をしていいか分からず戸惑っていると、片倉は莉子の背中をポンと押した。
「ほら、準備してきて」
「はい…」
そのまま片倉を背にして、デスクに戻る。
きっとデスクで聞かれていたら素直に話せなかったであろうことまで見抜いて、階段まで連れてきてくれたのだろう。莉子がのそのそとパソコンを仕舞い、荷物を持ってエレベーターで一階に降り、オフィスから出ると、外から戻ってきた片倉とちょうど会う。
「あれ?先輩…」
「はい、コンビニで買ってきた。帰ったらすぐ病院行って寝なよ」
白いビニール袋を渡され、中を見ると栄養ゼリーやおにぎり、カットフルーツなど、食べやすそうなものが入っている。あの後、すぐにコンビニに行って買ってきてくれた様子の片倉を見つめてお礼を言う。
「何もかもありがとうございます…」
「うん、明日は休みだし、ゆっくり寝てね」
そういえば、今日は金曜だ。確かに休みでよかった。
片倉の優しさが沁みる。朝よりも足が重くて頰が熱い気がする。
大人しく休んでおけば良かったかもしれない。
電車の中で近所の病院を調べると、ギリギリ間に合いそうだったので帰宅途中に寄り、風邪との診断と薬をもらって家に着いた。
片倉からもらったゼリー飲料を流し込んで、薬も飲んだ。
寝ていれば土日のうちに治るだろう。そう思い、莉子がベッドの中でぼうっとしながらもスマホを触っていると、加瀬からのメッセージを知らせた。
【ところで俺の風邪、移ってない?】
それまでしていたメッセージの流れを切るように、今の状況を見透かしたかのように送られてきたその文章に、莉子は思わず眉をしかめてしまう。
【移ってないよ】
【じゃあ会える?俺もう完全に治った】
【会えはしない】
【なんで?風邪移ってない?】
【仕事で忙しいから】
【じゃあ夜、ちょっとだけ顔見に行っていい?】
【だめです、忙しいので】
【絶対移ってない?】
【移ってない】
【じゃあその確認をしに行くわ】
【だめだってば】
短文のやり取りを何往復もしているうちに眠気が襲ってくるも、ここでメッセージを切らしたら余計不審がられてしまうと思い、莉子は目を擦りながら返信をする。
ただ薬の影響か、段々それにも抗えなくなり、莉子は目を閉じた。
どうか、加瀬には伝わりませんように。
そしてその願いも虚しく、数時間後、ピンポンと鳴らされた呼び鈴の音で目を覚ますことになる。