ひとつの秩序
ピンポーン、と軽快な音が頭の上の方で聞こえて、意識を取り戻した。
目を開けると、隣のカーテンの隙間からはオレンジの光が差し込んでいて、夕方になったんだと分かる。
「まさか…」
思わず呟きが漏れる。眠る直前までしていたやり取りを思い出し、インターホンのモニターを確認すると、画面に映ったのは予想していた人物だった。
「…なんで来たの」
『やっぱいるじゃん、開けて』
インターホン越しに話すわけにもいかず、エントランスの開錠ボタンを押した。
テーブルの上に放り投げたままの、朝使っていたマスクをして、また鳴るはずの玄関の前で待っていると、数秒後にまたインターホンが鳴り、ドアを開ける。
「来ちゃった」
「そんな可愛く言われても、ていうか待って、会社は?」
「早退した」
「早退!?」
「使わなきゃいけない時間休あったし、こないだ南がしてくれたことだろ」
莉子は一歩下がってドアを開けた。加瀬が玄関に入ってくる。
手にはビニール袋を持っていて、数日前とは逆の立場だと思った。
「加瀬ほど熱高くないよ?もう病院も行ったし…」
「上がっていい?気になるなら、俺んち来ても良いけど」
「は!?行かないよ!こないだ気軽に上がるなって言ったのは加瀬じゃん!」
「言ったかなー、じゃあ上がっていい?なんもしねーし」
いいって大したことないから。いや嘘じゃん。嘘じゃないって。
そんな会話を玄関でしばらくした後、加瀬の様子に諦めた莉子は、ため息をつきながらスリッパを出した。
「ちょっと待って、コロコロだけさせて」
「気にしねーって」
「うるさい、ちょっと待ってて」
なんで私は体調が悪いし寝ていたいのに、部屋の髪の毛を取っているんだ?加瀬ってこんな強引な男だったっけ?こないだの弱っていた男はどこ行ったんだ?
脳が正常に働いていないのか、悶々と垂れ流される疑問を少し腹立たしく思いながら見える範囲だけ軽く掃除をする。ぺりぺりと粘着テープを剥がしている自分がなんだか滑稽に思えてくる。
「…どうぞ」
「ごめんな、こればっかりは。俺のせいだし」
加瀬は仕方ないだろ?と言わんばかりのあっけらかんとした態度で、スリッパを履いて玄関を上がる。律儀に莉子の掃除が終わるまで、玄関で待っていたらしい。
「自分で買ってきたんだ?」
「あー…先輩が、くれた」
テーブルの上のビニール袋からはみ出た、ゼリーやおにぎりを見て、加瀬はビニール袋をその隣に置いた。どうやら中身は似たようなものらしい。
その隙間から、莉子が好きなメーカーのプリンがあるのが見えた。
「…なるほどね。会社行って、早退したの?」
「午前だけね」
「そか。とりあえず寝な。病院は行ったんだっけ?」
「うん、ありがとう」
加瀬の部屋は、リビングと寝室が引き戸で繋がっている間取りだったが、莉子の家は、完全に壁で分かれている。莉子がリビングから寝室に移動すると、その後ろをそのまま着いてこようとする加瀬に、莉子は振り返る。
「…どこまで入ってくるの?」
「南が寝てる中、こっそりドア開けたり閉めたり確認する方がキモイだろ。リビングでくつろぐために来たわけじゃねーし、別になんもしねーよ。そばにいるだけ」
加瀬の言い分に、確かにそうかと思い、莉子は寝室に入り、ベッドに潜る。
ベッドから少し離れたところにある椅子に座るかと思ったが、加瀬はラグの上に座り、ベッドに背をつけてもたれた。
「……ごめんな強引に」
「…今更。いいよ、心配してくれたんでしょ?ありがと」
「なんもできねーけど。なんかあったら何でも言って」
「うん。…心強いよ」
病院でもらった薬が効いたのか、少し眠ったからなのか、昼よりも良くなっている気がする。
時計を見ると十六時になっていた。夕陽が部屋に差し込み、加瀬の足元には影とのコントラストが出来ている。
「なー」
「なに?」
「キスしていい?」
「はっ!?」
莉子はギョッとして少し首を持ち上げて加瀬を見た。
加瀬は先ほどと同じ姿勢のまま、窓の外を眺めている。
「また俺に移ったりしないかなーと思って」
「出た、乙女メルヘン大男。少女漫画じゃん」
「知らん悪口言うなって。だって俺のせいだし」
冗談なのか本気なのか、それとも半分半分なのか。
加瀬の話すトーンはいつもと一緒で、莉子もいつものように返す。
「別の加瀬のせいじゃないよ。あの日だって、加瀬が断ったのに強引に家にいたのは私じゃん。だから変なこと言わないで」
「変なことって、俺は好きだからなー」
「…知ってるよ」
一日の中で二人の男から好きだよと言われ、その度に頭がくらりとするのは、風邪のせいなのだろうか。
莉子は布団を口元まで引っ張り上げた。がさりと布と布が擦れる音がする。
「…なぁ」
「…なあに」
「…本当に、好き」
「……うん」
ぽつりと、加瀬は静かに言った。
莉子も小さく返事をした。
「なんでだろうな…」
「…」
天井に向けていた目線を、少しだけずらして加瀬を見た。
加瀬は相変わらず、さっきと同じ姿勢でベッドフレームにもたれて、窓の外を見ている。表情は分からない。
「なー」
「…なあに?」
「やっぱりキスしていい?」
「…だめだってば」
加瀬は顔を少しだけ後ろを向けて、莉子を見た。
目が合うと思っていなかった莉子の心臓は、どきりと跳ねる。
「俺に、つらいの、ぜんぶ移していいよ」
「……うつさないよ…」
私の今の気持ちを、きっと加瀬を分かっている。
先輩に揺れていることも、加瀬に揺れていることも、選びきれないことも、それで私が自己嫌悪に陥っていることも。
それでいて、風邪も、気持ちも、全部自分が引き受けると言っている。
それのどこが、優しくないんだろう。
「ごめんな。俺…こんなにも執着してて」
「…あやまらないでよ」
加瀬は仕方がないような顔をして、くしゃりと笑って、また、窓の方を向いた。
布団の中は温かいはずなのに、どこか冷えている気がする。
私、今、加瀬の気持ちを、受け止めたい。
「…手、握ってて欲しい」
「…もちろん」
布団からそうっと出した手を、きゅ、と優しく掴まれた。
指先を優しく包むみたいにしたあと、遠慮がちに、手のひら全体を覆って、少しだけ力が込められた。
「…私…加瀬に、つらい、思い、させてるのに」
「……そんなん、いいよ」
今更だよ、と加瀬は言った。
なんてことないような声だった。
「…いつから、わたしのこと?」
前から気になっていたことを、今なら聞ける気がした。
こんもり盛り上がった布団の奥に、加瀬の頭が見える。
手ぐしでも形が整いそうな、扱いやすい柔らかい毛質。
「…そんなん、言わねーよ」
ぴよ、と後頭部に変な寝癖がついているのが見える。
夕方の日差しがさっきよりも伸びて、柔らかくオレンジ色に加瀬の横顔を照らしている。
「…そっか」
その寝癖を触りたくなって、そういえば手を握ってもらっているんだった、と思い出してやめた。
「…寝ていいよ。なんかあったら、言って」
「……うん…」
心地いい。
なんとなく、その暖かい光を感じていたくて、寝返りを打って加瀬の方に身体を向けた。
加瀬は少しだけ振り返って、莉子を見たあと、ふ、と笑ってまた元の向きに戻った。