ひとつの秩序
第四章
あの日、少し眠って、目を覚ますと、リビングに加瀬がいた。
人んちのキッチン勝手に使えねーし、買ってきたやつで悪いけど。そう言って茶碗に鶏と生姜の雑炊をよそって出してくれた。
家には強引に入ってきたくせに、そういうところを気にするのは加瀬らしいな、と莉子は思わず笑った。
加瀬は、莉子が雑炊を食べ終わったのを見て、食器を洗って、お大事に、と柔らかい笑みを残して帰っていった。
土日はゆっくり休み、薬もしっかり飲んだことで日曜にはすっかり回復していた。
日曜の夜、莉子はパソコンを開いてプレゼン資料を再度読み込んだ。
片倉に迷惑をかけ早退してしまった分、月曜からはしっかりやらなければ、との思いでパソコンの文字を追う。
「次世代ライフソリューション部門が手がける体験拠点…むずかし」
今回はクライアントの会社の中のスペースを使用しての空間構成、という内容だった。
六社で競い、一週間後のプレゼンを経て、一旦三社に絞られる。
「生活は、設計されている。がコンセプト…」
少しだけ作業をし、時計が二十一時を指しているのを見てパソコンを閉じた。
明日からは、気持ちを切り替えて頑張る。
チラリと視線を上げて、テレビ台の横に飾ってあるキャンドルを見た。
莉子が担当したポップアップで、加瀬が買ってきてくれたもの。
溶けて欲しくなくて、そのまま置物として飾ってある。手に持って、香りを嗅ぐ。
ジャスミンと、シトラス、少しウッディーで、癒される森林の香り。
少しだけ香りを嗅いでから元の位置に戻すと、壁に貼り付けたポストカードが目についた。片倉が、美術館で買ってくれたもの。
両方とも好き、では通らない。
そろそろ、答えを見つけ出さなくては。
しばらくそのカードを見つめて、莉子は視線を逸らした。
生活は、設計されている。先ほどのコンペのコンセプトに強引に頭を切り替え、莉子は洗面所へと向かう。
私は、自分で、自分の生活を設計していきたい。
数日後、コンペのプレゼンが、佳境に入っていた。
会議室のホワイトボードは、いつの間にかびっしりと文字と図で埋まり、テーブルの上には印刷された資料と空になったコーヒーカップが増えていく。
時間の感覚が曖昧になっていて、窓の外が暗くなっても、誰も言葉を挟まなかった。
莉子が任されていたのは、全体のトーンをまとめるビジュアルと、その意図を説明するパートだった。最初は、正直、重いと思った。
自分の判断が、このコンペの印象を左右する。
それが怖くて、何度も資料を見直しては、修正点を探していた。
「今何してる?何考えてる?」
片倉が莉子の画面を隣から見つめた。
「売らない、っていうのがなんか掴めなくて、何を評価されるのかなって」
「うん、だからこそ言葉より先に、感覚が動く場所にする」
片倉のペン先が、印刷されたコンセプトシートの余白を叩く。
——生活は、設計されている。
人は気づかないまま、空間に導かれている。
それが今回の芯だった。
正解を提示しない。説明しない。
でも、出たあとに「なんか良かった」「説明できないけど覚えてる」で帰らせる。
施設はワンフロア、五百〜七百平米。天井高あり、窓あり、壁は白からグレー基調。床はコンクリか無垢風。
ぱっと見は、よくある「おしゃれ」にできる。でも、それは一番やっちゃいけないというチームの認識だった。
「いくつかは、分かりやすいのが来るわ」
机の上に並んだ競合想定のムードボードを見ながら、静は言った。
「きれいで、ロジカルで、ちゃんとしてる。でもね、よくある。それで終わるのよ」
「うん、そうだね。…あ、南、ここもう一回だけ見直そっか」
静の声に返事した片倉が、莉子の画面を操作して、一つの画像を出した。
はい、と返事をした莉子は背筋を伸ばして、マウスを持つ手に力が入る。
片倉が隣からモニターを覗き込む。
莉子がカーソルを動かす前に、次に触るべき箇所が見えている。
「そこ、色味だけ少し抑えよう。情報は十分だから」
「ここですか?」
「うん。いい」
短いやり取りなのに、歯車が噛み合う感覚。
説明しなくても、理解されている。理解されているから、迷わず進める。
本来は、面倒で怖くて、でも今は少しだけ楽しい。
一つ直すたびに、全体がきれいに締まっていくのが分かる。
ああ、やっぱり私、片倉先輩の元で働くのが好きだ。
引っ張ってもらえて、自分じゃ思いつかないものが常にあって刺激になって、全てが尊敬できて、安心する。仕事に集中して、デザインのことで頭がいっぱいな自分も好きだ。充実している感覚が、自分を満たしていく。
ずっと画面を見ていると目が少しだけ疲れて、視線を外す。
ポケットに入れていたスマホを確認すると、加瀬からのメッセージが入っていた。
【がんばって】
コンペがあると簡単にメッセージのやり取りをしていた、続きの文だった。たったそれだけの文なのに、胸の奥が少しだけ緩む。
【ありがと!】
そう返して、スマホをまたポケットに仕舞った。
今は、仕事に集中したい。ここを頑張ったら、何か掴める気がしていた。
深夜、ようやく作業が一区切りついた頃、オフィスには片倉と莉子しか残っていなかった。空調の音と、キーボードを叩く音だけが響く。
光の当たり方が違う壁面。音が変わる床。触れると温度が変わる素材。
気づいてないのに、選ばされている。
その設計の「間」を、莉子は任されていた。
「…あの、視線の高さ、ここで一段変わると思うんです」
莉子が図面に指を置く。何もない壁にぼうっと視線をやりながらコーヒーを飲んでいた片倉が、莉子の言葉を受け、目を向けた。
「この距離だと、近すぎて息が詰まります。立ち止まらない。半歩下がった方が綺麗」
言いながら、自分でも驚いた。今までの自分なら、なんとなく、で終わらせていた。でも今は、理由を言える。言ってしまえる。
片倉はふっと笑って、頷いた。
「言語化、できてるじゃん」
少しだけ胸が熱くなって、さっきよりも背筋が正しくなる気がする。
「じゃあここ、ベンチは置かない。代わりに、抜けを作ろう。窓側に、情報量を落として、そこを静寂ゾーンにするか」
「…いいんですか」
二人だけの空間で、それを決めても。
莉子の気持ちを分かったかのように、片倉は一瞬だけ笑って、何気ない声で言った。
「南の判断でいい。責任は俺が持つ」
その言葉で、莉子の集中が研ぎ澄まされる。不思議と、怖さが消える。
胸の奥が、熱くなる。この人の隣にいる自分が、誇らしい気がする。
そうだ、これあげるよ。と片倉が、自分のバッグから小さな紙袋を差し出した。中には有名店のチョコレートが入っていた。
「これ食べて、がんばろうね」
「ありがとうございます!」
大人っぽく金箔が装飾されたチョコレートを一粒つまんで口に入れると、一口で、甘さが完璧に整っていて、舌の上で迷いが消える。
先輩がくれるものは、いつも私を、格上げしてくれる気がする。
ふと、加瀬の家で食べたアイスの冷たさが頭をよぎる。加瀬といるときの私は、泣いたり怒ったり、子どもみたいになる気がする。でも、先輩の隣にいる私は、背筋が自然に伸びている。
「…なんか、コンペ、通る気がします」
莉子が言うと、片倉は莉子を見て、ふっと笑った。
蛍光灯が、少しだけ音を立てた。
「通るよ。通したい」
その声に、喉の奥がきゅっと鳴った。
仕事の充実が、片倉への信頼にすり替わっていく。
信頼が、心酔に、静かに沈んでいく。
スマホが、また震えた。ロック画面で、加瀬からのメッセージだと分かった。
でも莉子はそれを反対向きに伏せて、キーボードに指を置いた。
今は、仕事に集中しなきゃ。
そう思わないと、加瀬の顔が浮かんで、今のこの時間が全部壊れてしまいそうだった。
それが、言い訳なのか、救いなのかも分からないまま。