ひとつの秩序
 
 
 
来週の月曜日がプレゼンで、今日は金曜日。
時計は、もう二十二時を回っている。

深夜のオフィスは、音がない。
正確には、空調の低い唸りと、どこかのフロアで稀に鳴る金属音だけが、かすかに漂っている。それ以外は、静寂と呼んでいい空気だった。

会議室では、蛍光灯の白い光が、机の上の資料を均等に照らしている。
昼間よりも輪郭がはっきりして、余計な影が削ぎ落とされる感じがした。

莉子は、画面から目を離さず作業を続けていた。

視線の高さ、立ち止まる距離、半歩下がった時に生まれる抜け。

どれも、もう何度も確認している。それでも指が止まらない。
疲れているはずなのに、もう一回だけ確認しよう、と思ってしまう。

修正が、楽しい。
それは少しだけ怖くて、同時に、胸の奥が静かに満たされていく感覚もあった。


背後に、気配がして振り返ると、少し離れた場所に片倉が立って、腕を組み、何も言わず、莉子の画面を見ていた。

「…先輩?」

声をかけると、片倉は一瞬だけ視線を逸らした。

「ごめん。邪魔してる?」
「全然。大丈夫です」

そう答えて、再び画面に向き直った数秒後、

「……みなみ、」

呼ばれた声が、いつもより低くて、重くて、莉子は思わず画面から手を離し、椅子ごと振り返る。

「…なんですか?」

問いかけると、片倉は小さく息を吐いた。
まるで、長い間押さえ込んでいたものを、今になって外に出すみたいに、静かな声でぽつりと言葉を落とした。


「……最初からさ、…南のこと、可愛いと思ってた」


言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。
莉子は瞬きをして、少し間を置いてから、ようやくその言葉を受け取った。


「でも、後輩で。初めての部下で、だから、大事に育てなきゃって思った。俺の知識、全部渡して、ちゃんと仕事ができる人にしなきゃって」
「…はい」


莉子は一拍遅れて返事をする。
前触れもなく片倉の口から溢れ出る言葉を、真っ直ぐに聞く。
ずっと感じてきた片倉の姿勢。尊敬して、信頼して、安心して身を預けてきた。

「…そういう目で、見てたわけじゃないんだ」

片倉は、少し苦しそうに笑う。莉子は動けない。
目線も、指先も、固まってしまったかのようだ。

「俺がマッチングアプリに登録したのは、そんな南を、汚したくなくて。いつか、自分が衝動的に、手を出してしまいそうで」

蛍光灯の光が、机の角で反射して、眩しい。
さっきまで気にならなかった空気が、急に重く感じる。

「彼女に惹かれたのも事実だし、同棲も、自分なりに決めたと思ってたけど、もしかしたら、逃げる気持ちも少しはあったのかもね」

片倉は、そう言ってしばらく黙った。

「彼女とは、価値観がずれていったって話、したと思うけど」
「…はい」
「違うんだ」
「…?」

床に落としていた目線を上げて、壁に少しだけ背中をもたれさせて、手はポケットの中に仕舞われている。グレーのパンツから、長い足が伸びて、ベージュのタータンチェックの靴下がチラリと覗く。

しばらく、誰も何も言わなかった。
空調の音だけが、やけに大きく聞こえる。


「…たぶん、ずっと好きだった」


好きだと片倉から言われるのは、初めてではない。
ただ今までは、何かを狙ったような、周りからじわじわと囲われるような、余裕そうな調子で。
声を荒げるでもなく、感情をぶつけるでもなく、ただ事実として置かれるそれは、あの時の、打ち合わせ先の帰り、誰もいないオフィスのベンチで、告白してくれた時のような、


「南が、俺のこと…好きでいてくれたのも、知ってた」


片倉の言葉に、莉子は瞬きを数回繰り返す。
なんとなく、目線を外して、片倉の手のあたりを見つめる。

「…知ってたん、ですか」

思わず、声が小さくなる。
片倉だけを追いかけて、純粋に好きだと思って、それだけの気持ちで満たされていたあの頃が、遠い昔のように思えてくる。


「でも、それも、慕ってくれてるだけって決めつけて、このままの関係が、一番いいって思ってた。彼女ができて、その話をすることで、南が少し、幻滅してくれた方がいいとまで、思ってた」

自嘲するように、片倉は口角を上げる。
じとり、手の内側が湿って、それが不快で、自分の指を無意識に擦り上げる。
胸の奥が、じくりと痛む。

「俺は、本当に、南が憧れるような人じゃない。そんな、すごい人間じゃない。でも、南が…俺のことを、好きじゃなくなるのかもって思ったら、我慢できなくて」
「せ、んぱい」

オフィスの静けさが、急に重く感じられる。

片倉は一歩、距離を詰めた。
その目は、今まで見たことがないほど、弱々しい。


「こんなことなら、最初から言っておけばよかった」


きっと、一年前の自分なら。
何も考えず、飛び上がって、喜んでいた。

「…後悔、させないよ」
「あ、の、…」


声が、会議室の冷たい空間に溶けていく。
言葉を挟もうとした莉子の声は、途中で消えた。

莉子は思わず、クリーム色の自分のスカートを掴む。
シフォン素材が、柔らかく歪んだ。


「…俺じゃ、だめ?」


確認じゃなくて、お願いみたいな。


いつも完璧で、余裕があって、背中を見せてくれていた人が、いま、縋るみたいに、立っている。

この人、こんなふうになるんだ。
憧れて、追いかけて、追いつきたかった人が、

いま、私を欲しいと、弱く呟いている。

泣いているみたいだ。

 
 
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