ひとつの秩序
会場の空気は、ひどく乾燥していた。
相手の会社の会議室なのだが、莉子の会社のものよりも広くて、大手企業なんだなと感じさせられる。大学の小さめの講義室のような雰囲気で、そういうために使われる場所なんだと実感する。
「なんか空調きついねー」
「は、い」
「そうねー、リップ塗り直しとこ」
片倉が何気なく呟き、それに静がなんてことのないかのように返す。
いつもと違う、片倉のスーツ姿が格好いいなどと思う余裕もなく、固い返事をする莉子。
莉子との間にある経験値の差を感じさせる。
喉の奥がひりつくような感覚がして、何度も小さく唾を飲み込む。
空調の効いた会議室は静かで、スーツの裾が擦れる音や、革靴の固い足音がやけに大きく響くような気がするのは、私が緊張しているからだろうか。
「ねー、終わったらご飯行かない?」
「いいね、お疲れ様会だね」
「南も行こーねー」
「は、はいっ」
首を回しながら静が言う。
緊張しているようには見えないその姿に、莉子はより背筋が伸びてしまう。
徹夜に近い作業のせいか、疲労のせいか、理由は分からない。
ただ、視界の輪郭が少し曖昧で、それが現実感を遠ざけているみたいだった。
「大丈夫?」
「…はい」
指定された席は後ろの区画だった。席までの通路で、隣を歩く片倉が、低い声で莉子に囁く。
自分の声が、思ったよりも細いことに気づく。胸の奥がざわざわして、手のひらがひんやりしている。
「南なら大丈夫だよ」
「…ありがとうございます」
先日の片倉の言葉には、言葉が出せないまま。
あのあと、黙ったままの莉子に、片倉は、ごめんね急に、と優しく謝った。
その後は揃って会社を出たが、お互い何も話さなかった。
土日を挟んだが、何も手につかなさそうだと思い、莉子は予定を入れなかった。
その分、片倉と加瀬のことについて考えていた。
早めに到着していた莉子たちだったが、人が増えるにつれて、さらに空気が変わった気がした。目の前に座っている人たちは、それなりの人数がいて、なんとなくそれにも圧倒されてしまう。
天井が高く、白い壁に囲まれた空間。乾いた静けさと、張り詰めた期待が混ざっている。
国内最大手メーカーの、次世代ライフソリューション部門。
売るための施設ではない、思想と体験の拠点。
難しくて、初めてで、心臓が、激しく踊っている気がする。
説明できなくていい。
でも、覚えて帰ってもらう。
正面ホワイトボードの隣に用意された席。
そこに着く直前、莉子の足がわずかに止まる。
緊張で、呼吸が浅くなっているのが自分でも分かった。
その瞬間、片倉と目が合った。
片倉は優しく微笑む。
ただそれだけなのに不思議と胸の奥が落ち着いて、息が、すうっと入る。
大丈夫だ、と言われたわけでもない。でも、身体が勝手に理解した。
どうして、この人は、私をいつも安心させて、引っ張り上げてくれるんだろう。
プレゼンが、始まる。
スクリーンに、莉子が作った最初のスライドが映る。
ロゴは最小限で、明確な入口を示す言葉もない。
「この空間は、説明のために作られていません。生活を、思い出してもらうための場所です」
まずは片倉の声が、会場に通って、空気が、少しだけ変わる。
落ち着いていて、柔らかくて、心に語りかけるみたいな声。
ずっと、隣で聞いてきた。
そうして、莉子の担当は、体験ゾーン。
声が震える、でも、大丈夫。隣に、先輩がいるから。
「…ここでは、展示の正解を提示しません」
莉子は言葉を選びながら、説明を続ける。
「人によって、見る順番が変わります。それは自由というより、選ばされている感覚に近い」
一瞬、言葉に詰まる。
会場の視線が、莉子に集まる。
「補足します。選ばされている、という感覚は、不快ではありません。生活の中で、私たちは常にそれを受け入れているからです」
片倉が、自然に言葉を重ねた。完璧なフォローに莉子の胸がじわっと熱くなる。
会場の空気を、片倉が掌握する。莉子は一拍遅れて、続きを口にする。
「…はい。そのため、この空間では気づいた時には、始まっている構成を取っています」
言葉が、流れに乗る。片倉が作った波は、莉子はよく知っている。
説明しない。正解を渡さない。でも、何かが残る。
スライドが切り替わるたびに、片倉と目が合う。
いまの、よかった。次、いこう。
言葉はないのに、全部伝わる気がした。
ああ、私たち、最強なのではないか?という錯覚すら覚える。
プレゼンが終わった瞬間、静かな拍手が起こった。
大きくはない。でも、確かな手応えのある音だった。
席に戻ると、張り詰めていた緊張が一気に解けて、ふうっと長い息が漏れた。
次の会社の準備で、少しだけザワザワしている空間がありがたい。
「頑張ったじゃない」
「うん、良かったよ」
静が莉子の頭に手を乗せて、片倉も隣から柔らかく微笑んで莉子を見ている。
気持ちが緩むのを感じ、莉子の視界がじわりと歪む。
「まだ泣かないの」
「は、い」
「緊張したね」
心臓が、どくんと全身を打ち付けるような興奮がいまだに続いていて、もう何が何だか分からない。自分がさっきまでどうやって言葉を繋いでいたのか、覚えていない。
席に戻り、ファイルに資料を仕舞っていると、カバンに入れていたスマホが白く光り、加瀬からのメッセージを知らせていた。
【どうだった?】
【がんばった】
少し前に来ていたそれに、莉子は画面を見つめて、少しだけ迷ってから、打ち込んだ。
ああなんだか、今、ものすごく加瀬に会いたいかも。