ひとつの秩序
「どうする?ご飯行く?」
「んー…」
「私、」
会場を出て、静が片倉に話しかける。
来る時には高かった日が、少しだけ落ちてきている。
そういえば、そんな話をしていた気がすると思いながらも、莉子は二人の背中に声をかける。その声を受けて、二人が振り返る。
「私、今日はちょっと」
「…」
「そうね、ふわふわして興奮しちゃって、気張って疲れたわよね。今日は帰ってゆっくり休んで。明日ランチでも行こっか」
「はい!」
いつもの定時よりも、少しだけ早い時間だった。
ここ最近は遅くまで残っていたので、そのまま帰ることは何の問題もない。
莉子は二人に頭を下げて、帰路に着く。電車の中で、加瀬にメッセージを送る。
【今日の話、聞いてほしい!】
【聞く聞く。仕事終わったら、そっち行っていい?】
【うん!待ってるー】
静の言葉を、反芻する。ふわふわして、興奮している。さっきまでの心臓の高鳴りは治って落ち着いたけれど、地に足がついていないような、体が浮いているような、心がざわざわして落ち着きがないような気持ちはまだ残っている。
三月の下旬、久しぶりに腕を通したスーツのジャケットが、パリッとしていて落ち着かない。それでも、ちょっとコンビニに寄って、甘いものを買いたくなる。
デザートコーナーでいつもは買わない、ちょっとお高いプリンの上に苺のジュレが乗ったものを一つ手に取る。
少し迷って、もう一つ取った。
こっちに来てくれるって言ってたし、これ加瀬好きそうだしあげよっかな。
季節限定のシールが貼られたそれをじっくり見つめる。
もう、三月も終わる。
「おつかれ」
「おつかれさまー」
莉子の最寄り駅近くのファーストフード店でポテトをつまんでいると、加瀬がスーツ姿でやってきた。家に帰らず、そのまま来てくれたらしい。
「夜メシこれ?」
「さっきコンビニで買ったプリン食べちゃったの」
「ご機嫌じゃん」
加瀬も食べる?と聞くと、もらうわ、と一本だけつまんで隣に座った。
俺も夜メシここで食べてこー、とスマホを操作してモバイルオーダーを頼むらしい加瀬を、莉子はじっと見ていた。
「で、どうだったの?」
「なんか、あんまり覚えてないんだけど、良かった気がする」
「ふ、なにそれ。緊張してた?」
「いっぱいいっぱいだった。けど拍手もらえて、多分そこそこ良かったと思う」
「いつ結果出るの?」
「一旦一週間後かな。通過したらまた二次があるよ」
じゃあまた忙しくなるんだなー、と加瀬は呟いた。注文は終わったらしく、スマホを仕舞い、莉子のポテトをまた一本つまむ。
「なくなる」
「俺のナゲット食べればいいじゃん」
「食べる」
「腹いっぱいじゃねーの」
からりと笑いながらそう言う加瀬に、莉子も少し笑みが溢れる。
しばらく話して、混んできたので、店を出ることにした。
加瀬は当然のように送ると言ってくれ、その言葉に甘える。
「私の担当じゃないとこなんだけど、先輩が考えた配置がね、やっぱりすごくて」
「うん」
「視線の高さを少し変えるだけで、立ち止まり方が全然違ってて。ああいうの、やっぱり経験なんだなって思ってさ」
「…うん」
三月下旬と言っても、夕方は寒い。
家を出る時はまだ暖かかった。
ニット一枚で出てきてしまったから少しだけ寒い。
「建築の考え方もさ、展示じゃなくて、暮らしから逆算する感じで。感覚が似てるのか、私がそう教えられたからかもしれないんだけど…」
短く相槌を打っていた加瀬が、黙ったのに気づいて莉子は言葉を止める。
隣で自転車を引きながら歩く加瀬の足取りは変わらない。
住宅地に、微かにカラカラと自転車のチェーンの音が鳴る。
「…完璧だな、先輩って」
「え?」
加瀬がぽつりと言った。
「そりゃ、好きになるよな」
「え、なに…」
「仕事できて、建築にも詳しくて、感覚が似てて、いいなって思うものも同じで、そりゃ憧れるよな、分かってたけど」
「なに言って、」
「勝てないって、やっぱ」
ごめん、と加瀬が短く言った。
どうして謝るの。そういうことが言いたいんじゃないのに。
「いいんだ、これからも友達でいてくれたら、それだけで、俺は」
「待って、なんでそうなるの」
そういうつもりで、片倉先輩の名前を出したんじゃないのに。
でも、先輩のことは憧れて、尊敬していて、加瀬になんて伝えたら分かってもらえるのか、分からない。
加瀬は前を見ながら、自転車を引いて歩き続ける。
「もう、やめる?」
「…え、どういうこと?」
夜になりきらない空が、まだ少しだけ青みを残している。
昼間より確実に冷えた空気が、首元から入り込んできた。
「友達に、もどる?」
かせ、と呟いたはずの莉子の声は音にならない。
吐息は、白くならずに空気に溶けていった。
「友達の時の方が、楽しかったんじゃない?」
「…なんで、」
「最近、南ずっと悩んでるじゃん。別に、悩ませたいわけじゃないし」
「そんなの、加瀬のせいじゃ」
「俺のせいだろ」
加瀬は足を止めて、莉子を見た。
いつの間にか、莉子の家の近くまで来ていた。
少しだけ前を歩いていた加瀬との距離が、近いはずなのに遠くて、
「ずっと好きだった先輩に好きって言われて、普通ならそのまま、すぐくっつくのに」
「、待って」
街灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。
「なのに、友達の俺がしゃしゃり出てきてるから、無下にできないんだろ」
「ちがっ、」
足元のコンクリートで、靴と擦れて石が音を立てた。
「……やっぱりお前は、俺には届かない」
何、それ。
なにか言わなければと思うのに、否定しなければと思うのに、うまく言葉にならない。勝手に遠いところに行かないで。
「いつもそうだ。もう、そういうもんなんだ、きっと」
「か、せ」
冷えた空気が、指先の熱を奪っていく。
髪の毛が、首元を通って後ろに流れていく。
「…ごめん、俺、これ以上、醜くなりたくない」
加瀬はチラリと後ろを振り返って、莉子の家を確認した。
帰ろうとしていることが伝わり、莉子の目線も泳ぐ。
「待って」
「今日は帰るわ。ごめんな。見送れなくて悪いけど」
「かせ、」
加瀬がくるりと、来た道の方に方向を変えた。
風が冷たい。昼間とは別の季節みたいだ。
「またな」って、言わない加瀬が、莉子が家に入るまでを見届けない加瀬が、目を合わせない加瀬が、さよならって言ってる気がする。
加瀬が莉子の返事を待たずに、自転車を引いて歩き出した。
なんて言えば、伝わる?
どうしたら、分かってもらえる?
加瀬の背中が小さくなっていくことに、
耐えられない。
莉子は思わず、走り出す。
何を言いたいのか、まだ言葉にはならない。
手に持ったままのビニール袋がかさりと音を立てた。