ひとつの秩序
「加瀬っ」
遠ざかっていった背中に声をかけても、加瀬は振り返らない。
今、誤解されたまま、加瀬を帰したら、私、絶対後悔すると思う。
自転車に乗ってしまったら追いつけない。
そう思って、どうにかして引き留めたくて、自転車を引く加瀬の背中にしがみついた。加瀬の足は止まり、勢いのまま走った莉子の心臓は、激しく動く。
「え?」
「……」
「…どういう…?」
加瀬の戸惑った声が、その身体を通して聞こえる。
頬に触れる、加瀬のトレンチコートからは、いつもの匂いがする。
喉の奥に溜まった言葉が、どれも違う気がして、息だけが先に漏れた。
「……たぶん、好き」
自分の声が、くぐもって、小さく自分の耳に返ってくる。
こんなことを言おうと思って走ったわけじゃない。でも、気づいたらそれは、口から零れた。
「は、ぁ?」
加瀬の声が途切れたように聞こえて、後ろを振り返ろうと身体をよじる。
莉子はそのまま手に力を込めて、顔を見られないようにと加瀬に思いきりしがみつく。
そのたびに加瀬が後ろを向こうとして、莉子がしがみついて、何回かその動作が繰り返された後、諦めたかのように加瀬の動きが止まった。
「え?あの…南、なんて」
「分かんないんだもん!!」
加瀬のコートに顔を押さえつけて、手に力を込めてきつくしがみつくようにして、そのまま思った言葉を発する。加瀬の身体が、温かい。
「でもなんか、離れたくないって、なったんだもん!私も、もう、分かんないんだから!加瀬のばか!」
勢いよく発された自分の言葉と、同時に溢れる涙。
自分が今、どうしてこうなって、何を喋っているのか、もうよく分からない。
加瀬はそっと莉子の手に自分の手を当てて、ゆっくりと力を込めて身体から離した。
ゆっくりと優しく指を外されたことで、莉子もそれに素直に従う。
加瀬が振り返り、莉子の顔を見て、それから眉を寄せて、口角を少しあげて呟いた。
「…なんで、お前が泣くんだよ…」
落ちるみたいな声だった。
莉子は加瀬を見られない。腕にかかっていたビニール袋は莉子の動きによって振り回されていて、きっと中身はぐちゃぐちゃになっている。でもそんなこと、もうどうでもいい。
「分かんないけど、コンペ終わった後に、一番に加瀬に言いたいってなったんだもん!聞いてほしいなって、一緒にいたかったんだもん、だから来たのにっ、先輩とのご飯だって断ってきたのにっ、」
「……」
「なんか勝手に自分で理解してさ、先輩とくっついていいみたいな感じ出して、何それっ、勝手なこと言わないでよっ、そんなこと、私一言も言ってないじゃん、このっ、乙女メルヘン大男っ!」
住宅街の音が、急に遠くなった気がした。
さっきまで聞こえていた生活音が、薄い膜の向こうに押しやられる。
加瀬は莉子の言葉を、少し困ったような表情をしながら、黙って聞いていた。
先ほど外された手は、指先だけが繋がっていた。
「…知らん悪口、言うなって…。なんで、泣きながらキレてんだよ…」
加瀬は少し笑いながら、仕方なさそうにそう言った。繋がったままの莉子の手に力を込める。きゅ、と指先に圧を感じ、莉子も黙る。
「ちょっと、あっち行こ」
加瀬は莉子の手を離して、片手で持っていたハンドルを両手で持ち直した。
以前も加瀬と話した、莉子の家の近くの公園へと歩き始め、莉子も黙ってそれに従う。
あたりはすっかり真っ暗で、街灯がジジジと音を立てている。
莉子の嗚咽の音が住宅街に響く。
泣き声だけが浮いていて、それ以外は、夜に吸い込まれていくみたいだった。
「とりあえず、落ち着いて。俺、南が泣いてんの、すっごいザワザワするから」
公園の入り口で加瀬は自転車を停め、莉子の手を引いて少し奥に連れていった。
ブランコの周りを囲ってある低い柵に、加瀬は腰掛け、莉子はその前に立つ。
連れてこられた状態のまま、指先だけが少しだけ握られている。
加瀬の指が、莉子の指を二本分くらいを、軽く掴む。
「…なー、さっき、俺のこと、好きって言った?」
「……たぶん、ね」
「多分ってなんだよ。好きかもってこと?まだ分かんないけどって?」
「…うん、もう考えすぎて、何が好きなのか、分かんなくなった」
ひくり、としゃっくりを上げながら話す莉子に、加瀬は笑う。
「堂々と言うなよ、なんだよそれ」
「…」
「先輩のことも、好きかもってなってるってこと?」
「それは、違う」
「え?」
苦笑したように笑っていた加瀬は莉子の言葉に、動きが止まり、真顔になる。
加瀬が座って、いつもより低い位置にある顔を、莉子はじっと見つめる。
視線が合う。いつもとは、逆だ。
「先輩のことは好きだけど、それは憧れで、尊敬で、そういう意味じゃなくて…さっきみたいに頑張った時に一緒にいたかったり、聞いて欲しかったり、ぎゅってしたいなって思うのは、…加瀬」
加瀬の瞳が、じわりと熱を持っている。
莉子を見上げるその瞳の中に、月が反射して煌めく。
「…それは、多分じゃないの?」
「うん、これは、多分じゃない」
「……じゃあ、それは、俺のことが、好きなんじゃねーの?」
「うん、だから、たぶん好きって言った」
ひくり、としゃっくりが出る。
涙がぽたりと落ち、鼻を啜ると、じゅる、と鼻水の音が公園に響いた。
「…また鼻水かよ」
加瀬が苦笑しながら、自分のトレンチコートの袖を引っ張り、莉子の鼻をぎゅ、と拭う。柔らかい素材の布が、優しく擦れて去っていく。
「きたないって」
「いいよもう何でも、」
加瀬のトレンチコートが、春の風を受けてひらりと、はためく。
ネイビーのスーツから伸びた長い足が、じゃり、と公園の地面を蹴って音を立てる。
「…なんでこんな格好つかないのか分かんねーけど、全然想像と違うけど、でも、俺のこと、好きなんだよな?」
「…うん、多分」
「多分が外れねーけど、…まぁ、いいよ」
加瀬が立ち上がって、莉子を抱きしめた。
少し勢い余ったそれに、莉子の背中が少し反る。
身体の境目が曖昧になって、どこまでが自分で、どこからが相手なのか分からなくなる。
大きな身体の中にすっぽりと包み込まれ、加瀬の身体に沿って首も上向きになる。
コートの肩口の奥に、夜空が見えて、微かな星が輝いている。
「…充分すぎる」
加瀬の温かい声が、耳元で聞こえて、広がっていく。
降ろしていた手を加瀬の背中に回すと、少しだけその身体が強張った。しっかりと掴んでいたくて、力を込めた。
「なぁ、一回でいいから、多分ってつけないで言ってよ」
莉子は背中に回した手で、加瀬の背中のコートを掴んだ。
柔らかい素材のそれが、くしゃりと手の中で形を保つ。
「……加瀬が、好きだよ」
口に出したその言葉が、莉子の中にストンと落ちる。
まるで、前から分かっていたみたいに。
「………俺もだよ…」
絞り出すみたいに聞こえた声が、無性に愛おしくて、抱きしめたくて、もっと近づきたくなって、腕にも力を込めて、抱きしめ返した。
加瀬が莉子の肩に顔を埋める。
いつもの加瀬の匂いが広がる。
ああ、ずっとそれに包まれていたい。
柔らかい髪が、ふわりと頬に擦り付けられ、その温かさをもっと感じていたくて、莉子は目を閉じた。