ひとつの秩序
 
 
 
しばらく、抱きしめ合っていた。
加瀬が力を込めるたび、莉子はそれを返す。
いつの間にか、体温が溶け合って、一つになってしまったみたいだった。

「……ごめん」

加瀬の腕が動いた拍子に、ふ、と莉子の口から吐息が漏れて、加瀬がそれに気づいて力を緩めた。先ほどまでの熱が嘘みたいに、二人の間には風が流れていく。

「…謝らないでよ」
「…うん」

加瀬は短く返事をしてから、さっきまで腰掛けていたブランコの柵に、再度座る。
ゆっくりと莉子の手に触れて、包み込む。

「…なんか、実感ない。なんか…いや、」
「なに?」
「絶対笑うから」
「いいから、なに?」
「なんか…夢みたいだな、っていうか」
「……」
「笑ってね?」
「笑ってないよ」

莉子より十五センチも高くて、がっしりした身体の加瀬から出た言葉とは思えなくて、それよりも、そんなことを真面目に口に出す加瀬が可愛くて、微笑ましかった。口元に滲みそうになる笑みを堪えて、莉子は加瀬の指を握り返す。


「彼女…に、なってくれんの?」
「…うん、お願いします」


加瀬はまっすぐ莉子を見つめる。莉子も見つめ返す。

「多分なのに、いいの?」
「…多分じゃ、ないかも」
「え?」
「さっき口に出したら、なんかしっくりきたっていうか、…ちゃんと好きだなって、思ったから」
「…そうなんだ」
「うん、だから、…お願いします」

加瀬の瞳が、先ほどと同じように熱を含んでいる。きらきらしたその光が、莉子の視界まで伝染し、同じ熱を帯びたみたいだった。
加瀬の指先から伝わる熱が、温かくて、心地よくて、今となれば、最初からここにいればよかったと思えるほどだ。

「はー…俺、振り回されすぎじゃね?」
「…ごめん」
「いいよ、…嬉しいよ。はは、なんだこれ…なんか、本当に、夢みたいだわ」
「…乙女だね」
「……茶化すなよ」

加瀬が繋いでいた手を引っ張った。
前に傾いた莉子の身体を、そのまま受け止めるように抱きしめた。
先ほどよりも優しい力が込められていく。

「なぁ、ずっと思ってたけど、これ何入ってんの」
「あっ、加瀬に渡そうと思ってたプリン」

ずっと腕にかかったままで、もはや存在すら認識していなかったビニール袋を、加瀬が片手で抱きしめながら、もう片方の手で、莉子の腕からそろりと外す。

「…なんで?」
「いや、なんか…帰り道にテンション上がって、コンビニで買って、加瀬も好きそうだから渡そうと思いつつ、忘れて…」
「こんなビニール袋、わざわざ腕にかけて揺らしてて何で忘れられんの?」
「知らないよ、加瀬が急に離れていくからじゃん」

加瀬は力を弱めて、少しだけ身体を離した。
莉子との間に持ってきたビニール袋をかさりと開け、取り出したプリンをじっと見て言う。

「……ぐちゃぐちゃなんですけど」
「あっ、振り回したんで、だいぶ…」

加瀬と二人で、プリンを挟んでお互い笑みが溢れる。
何だか最初から最後までバタバタしていて、今日の昼間の時間が嘘みたいだ。
久々に見た気がする、加瀬の目尻の皺に、胸の奥から込み上げる気持ちがある。

「これ、今食っていい?」
「うん」
「苺じゃん、美味そう。もうそんな季節か」

加瀬が莉子の手を引いて、ブランコの脇にあるベンチに連れていく。
そこで二人並んで座る。ベンチに腰を下ろした瞬間、木の冷たさが太ももに伝わる。
冷たいな、そう思った瞬間加瀬が、莉子の肩に着ていたトレンチコートをかける。

「…ありがとう」
「寒いよな?ごめん必死で、今気づいた」

加瀬の匂いと温かさに同時に包まれる。
さっきまで抱きしめられていた感触を、そのまま留めているみたいで、胸の奥が静かに落ち着く。

加瀬は寒くないのかと思い目線を送ると、俺は今暑いから大丈夫、と返ってきた。少し肌寒いなと思っていたところだったので、ありがたく甘えさせていただくことにする。

三月下旬でも、朝晩は冷える。そう言えば寒暖差に注意してくださいって言ってたな、などと思いながら莉子は加瀬がプリンを食べる様子を見つめる。

「うま。食う?」
「ううん、食べたから大丈夫。美味しいよね、苺。好きなんだよねー」
「…いちご狩りとか、行く?」
「行きたいかも」
「うん、行こ。調べとくわ」
「…デートじゃん」

プリンを口に運んでいた加瀬が、莉子の一言を受けて視線を送る。今更、と思われてる気がして、莉子は少し気恥ずかしくなる。

「なんか、急に恥ずかしくなってきた…」
「ええ?」

どういうことだよ、と加瀬が言いながらプリンをビニール袋に入れた。
もう食べ終わったらしい。

そういえば、さっきまで何も意識していなかったけれど、肩が思い切り擦れるくらいで触れ合っているし、座っている位置も近くて、それを改めて脳で意識してしまうと、急に遅れて恥ずかしい感情が襲ってくる。


「…沢山デートしたいですけど、俺は」
「……はい、しましょう…」

いたたまれない気持ちになって、莉子は両手で顔を覆う。
告白って、もうちょっとちゃんとした場で、ちゃんとした格好で言うものだよね?ファーストフードのポテトを食べた後に、公園で泣きながらするものじゃないよね?

そう言えば、私の今の格好、めちゃくちゃ適当だし、加瀬はスーツでいいかもだけど、適当なデニムに適当なニット着ただけで、髪の毛もそう言えば結び癖がついたままなんじゃないのかな。

「照れてんの?今更?」
「……うるさいな」
「あんだけ支離滅裂なこと騒いで泣いて、鼻水垂らしておいて?」
「…それは、ごめんなさい」

そう言えば加瀬のコートで鼻水拭ってもらったんだった、と莉子は思って、顔を覆っていた指先をチラリと外して、コートの袖部分を見る。
月の光と公園の街灯の下ではよく見えない。


「…かわいい」
「え?」
「かわいい」


加瀬を見ると、加瀬も顔を手で覆っていた。
何の脈絡もなく、ボソリと呟かれたように聞こえた言葉に、莉子は怪訝な顔になる。

「…急に」
「別にずっと思ってたけど、黙ってたからな」
「…そう」
「これからは、普通に、思った時に言ってくことにする」

なんの宣言なの。そう言おうとしたところで、加瀬が顔を覆っていた手を外して、視線が合う。
ベンチの横にある街灯が、加瀬の瞳を反射させて、そよりと吹く春の夜風が、柔らかそうな髪の毛の上を泳いでいく。


「…かわいい、南。…かわいい」
「…っ」
「……好きだ、ぜんぶ、好きだ…、かわいい」


加瀬が莉子の手を引いた。
温度と身体が重なるのは、今日だけで、何度目だろう。
湿った吐息が耳にかかって、加瀬も熱を持っていることが伝わる。


「かせっ、」
「好きだ、本当に、…夢、みたいだ、好きだ…」


心臓が、あつい。
一日の間に、こんなにも鼓動が早くなることがあっていいんだろうか。
身体中の血液が、熱く全身を回って、どくりと音が響くのを感じる。

「私も、だよ…」

この人に、やっと肯定の言葉を返せたことが、こんなにも嬉しくて、こんなにも込み上げてくるものがあるなんて。
じり、と足元の砂が擦れる音がした。

もう星空なんて視界に入る余裕はない、もう加瀬が、つらい思いをしないように、精一杯愛を返していきたい。


「好きだよ」


夜の公園に溶けていった音が、どちらが発したものか、もう分からない。
このまま体温が溶けていけばいいのに、と思うほど、腕に力を込めた。
 
 
 
 
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