ひとつの秩序
 
 
 
「…明日も仕事だよね」
「そうだな」

名残惜しい気持ちと、恥ずかしい気持ちを抱えながら、莉子は呟いた。
加瀬が莉子の肩に顔を埋めながら返した。

「…今週末、会える?」
「うん、ていうか明日も会いたい俺は」
「…うん」
「あ、仕事忙しい?」
「コンペの結果が来るまでは、一旦は大丈夫だと思う」

どちらからともなく、身体を離した。
さっきまで絡まっていた体温が、ゆっくりほどけていくみたいだった。
スマホで時間を確認すると、二十時を過ぎていた。

「…俺んち、来る?また飯でも作るけど」
「……うん」

加瀬の言葉に、一瞬にして様々な想像や気持ちが頭の中に過ぎり、すぐに返事ができなかった。それを見透かしたかのように、加瀬が莉子の顔を覗き込む。

「え、警戒してる?」
「…ちょっと」
「まぁ、何もしねーとは言えないな」
「は!?」
「だって、何もしないわけねーだろ」

当然だろ、という顔をして何てことのないように言う加瀬に、関係が変わったことを、否応なく突きつけられる。
それはそうかもだけど。ていうか今まで何もしないって言いつつ結構触られたりとかしてきたわけで。
そりゃ付き合ったらそれ以上のことだってあるだろうけれど…と、まるで中学生のような思考が巡る。

「…ちょっとだけね」
「何それ、かわいい。俺、絶対なんかするわ」
「やめてよ」
「ふ、嘘だよ。それより、明日会社だろ」
「え?うん」

加瀬が立ち上がって、莉子に手を伸ばした。
立ち上がらせてくれるものだと思って、莉子は素直にその手を取る。

「わっ」

そのまま抱きしめられ、勢いよく加瀬のスーツに頬がぶつかる。
少し硬めの生地が擦れて、莉子の肩にかかっていた加瀬のトレンチコートが反動で肩からずり落ちる。

「ちゃんと先輩に言えよ」
「うん…」

何か、は言わなくても分かる。
どのように切り出して、何と言えばいいのか。そんなことを考えていると、加瀬はゆっくり身体を離して、ずり落ちたコートを再度莉子の肩にかけた。
顔を見ると、少しだけ眉をしかめている。

「めっちゃムカつく」
「…そんなこと言われましても」
「明日、南が何て言って、何て言われたか聞くから」
「…加瀬ってそういう感じなんだ」

莉子は、加瀬にかけられたコートが落ちないように、袖を通しながら肩をすくめた。思わず口元が緩む。加瀬は面白くなさそうにそれを見ながら、莉子の手を引いて、公園の出口まで向かう。

「そりゃ、そんなもんだろ。さっき思ったこと言うって言ったじゃん」
「そうだけど」
「南の会社、外との打ち合わせとか打ち上げとかも多いじゃん。そういう外の男に口説かれたこともあるだろ?」
「あー……いや」

莉子の返事で察したのか、加瀬ははぁ、とため息をついた。

自転車のロックを外して、すぐそこにある莉子の家に揃って歩き出す。
莉子は脳内に、美術館に誘われた桜井さんを思い描く。社会人なら、そういうことも普通にあるんじゃない?ていうか、そんなの加瀬だって同じじゃない?そう思うも、加瀬がむくれている様子が可愛いと思えてしまい、莉子は口には出さない。

「…あっという間に着いちゃうね」
「はぁ、かわいいな」
「ねえ」

莉子の家の前に着き、エントランスの前で加瀬の手が名残惜しそうに、ゆっくり離れていく。
莉子は、上がってしまいそうになる口角を抑えるようにして、加瀬をじとり、と見た。加瀬にコートを返そうとそれを脱ぐと、夜風が急にひんやりしたように感じる。

「言いすぎ」
「もう俺は我慢しない」
「反応に困るよ」

加瀬は、ふ、と笑って莉子に手を振った。早く家に入れということらしい。
莉子はいつもよりもゆっくり階段を登って、玄関に向かう。
手を振って、その振り返してくれる姿をいつまでも見ていたいと思いながらも、扉を閉めた。
がちゃん、という音と共に閉じた扉に背をつけ、加瀬の自転車が走り去る音が聞こえなくなるまでそこにいた。

















次の日、身体に熱が残ったままかのようになかなか眠れなかった莉子は、少しだけ寝不足だ。

「おはよ」
「…おはよう、ございます」
「昨日はお疲れさま」
「お疲れさまでした」

片倉が出勤し、莉子の右隣のいつもの席に座る。
カバンからパソコンなどを取り出して準備する姿を横目に見ながら、莉子は昨日の加瀬の言葉を思い返す。

いつ、どんなふうに、なんて切り出すのが正解なんだ?とりあえず人がいないところにいけばいいと思うけど、会社ってわけにもいかないし、どうやって連れ出す?今日伝えるのは不可能では??そんな思考を巡らせていると、片倉の方から声がかかる。

「昨日は緊張してたと思うけど、落ち着いた?手応え、どう?」
「あ、…正直あんまり覚えてなくて」
「まぁそうなるよね、初めはね」

片倉は少し考えるように右上の方に視線をやり、空気は悪くなかったと思うんだけど、と呟くように言った。

「午後、軽くまとめようか。久我も入れて」
「はい」

今日は一日社内だし、打ち合わせもないし、片倉と二人になるチャンスは無さそうだ。さっき静さんから、ランチの誘いもチャットで飛んできてたし、ていうか静さんにも相談に乗ってもらってたし話さないとだよね?と、またしても脳内の思考がループに入りそうになったところで、片倉がふ、と莉子の様子を見て軽く笑った。

「大丈夫だよ、よくできてたと思うし。一旦は結果待ちだね」

違うんです、とは言えず、莉子は頷く。
先輩を選ばなかったということは、今後関係はどうなっちゃうのかな。

昨日の加瀬とのことを経て、気持ちが揺らぐということはない。
今は胸を張って、加瀬が好きだと思える。
ただ、今まで通りに話したり教えてもらったりしたいです、というのは我儘になるだろうか、と考えると胸が痛んだ。
 
 
 
 
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