ひとつの秩序
「えっ付き合ったの!」
「はい…」
「そっかぁ、おめでとう!片倉ザマァね」
「言い方…」
その日の昼休み、ちょうど十二時ごろ。
魚料理の店で、銀だらの西京焼きを前に、静はニヤニヤと笑い、莉子は苦笑していた。
「南のこと気になるくせに、アプリなんかで他の女に手出してるから奪われるのよ」
「静さんそれいつから…?」
「見てたら分かるでしょ。前も言ったけど、先輩!先輩!ってあれだけ慕われちゃあね」
「私そんなに分かりやすかったですか…?」
「いや、他の人はそんな深読みしてないと思うわよ。あの時にいっておけばねーザマァねーほんと」
静が誘ってくれた和食屋は、ランチどきは魚をメインに扱っているお店で、比較的安く焼き魚定食がいただけるとのことで、店内は女性を中心に賑わっていた。
「昨日のプレゼンお疲れって意味のランチだったけど、全然そっちの話の方が面白いわ」
「プレゼンの話でいいですよぅ」
「たくさん話聞いてやったじゃない、南の現実逃避に付き合ったりもしたし」
「それは感謝してます…」
「片倉にはいつ言うの?」
「うーん…」
静が姿勢良く、白米を口に運ぶのを見ながら、莉子は返答に詰まる。
今までの恋愛でも、親しい間柄の人物の気持ちを断ったことがなく、どのようにするのが正解か分からない。その悩みをそのまま伝えると、静は少し悩んで言った。
「別に、南が言いたいことを言えばいいんじゃない?」
「…これからも同じように接してほしいですって、図々しくないですか?」
「でもそれが南の気持ちでしょ?」
「そうなんですけど…」
「それを聞いてどうするかは、片倉が決めることだし」
あいつそういうの上手そうだし、多分ギクシャクしないようにしてくれると思うけど。静の言葉に確かにそれもそうだな、と思いながら、莉子は自分が頼んだ鯖の塩焼きを口に入れる。
「あ、そういえば、話変わるけど、今年新卒入るから、その子の新人教育を南にやってもらうって」
「えっ、初めて知りました!」
「うん、私もこの間聞いた。だから、どっちみち片倉と一緒の案件はしばらく減るし、ちょうどいいんじゃない?」
静は食事を進めながら莉子に言った。
莉子はいきなりの情報とその密度に箸が止まり、目を見開きながら静に言う。
「私…が教えるんですか?」
「とりあえず基本的なことね。あんたも五年目になるし、そろそろいいでしょ」
莉子が入社してからは、中途採用はちょくちょく入ってきてはいたのだが、まるっきりの新卒入社はいなく、莉子の初めての後輩ということになる。
「どういう子ですか!?」
「さぁ、私は面接入ってないし。男の子だって。可愛い子だといいわね」
「緊張することがいくつもありすぎる…」
「いきなり南が案件のメインに入るってわけじゃないんだし、とりあえず片倉を何とかしな」
少しの間、頭から抜けていた問題をまた掘り返され、莉子は再び頭を抱える。
その様子を楽しそうに見ながら、静は最後の白米を口に放り込んでいた。
「お疲れ」
「うん、加瀬もお疲れさま」
退社後、いつもの加瀬の近所のスーパーで、加瀬の姿を見つけ、莉子は微笑んだ。
昨日も会ったのに、まだバイバイと手を振ってから二十四時間も経っていないのに、なんだかその姿が眩しい。
「夜になるとやっぱり寒いね」
「そうだなー、でも鍋ってほどでもないよなー」
加瀬は莉子が手に取った買い物かごを自分の手に移し、スーパーの食材に目をむける。
「今年は加瀬の家で鍋三回もしたね」
「カニとキムチとモツな」
「加瀬が一キロのキムチ買ったやつ」
「あー…あれな」
莉子が思い出し笑いをしながら加瀬の方を見ると、加瀬は少しだけ眉をしかめていた。苦い記憶なのだろうと思っていると、加瀬は少し気まずそうな顔をして、小松菜を手に取りながら言った。
「…男をもっと警戒しろよ、という意味で言うけど」
「?」
「あれ、半分わざとだから」
「どういうこと?」
「分かってて買ったよ、俺は」
「え!?」
莉子が顔を覗き込むようにするのを避けるかのように、加瀬は野菜の冷蔵棚から目を離さない。
「…あの時、警戒してただろ、俺のこと。だからそれをどうにかして解きたくて」
「…うん」
「思ったより一キロが多かったのは誤算だったけど、多いだろうなとは思ってたよ」
「……そうなの?」
視線を逸らしたまま告げられて、莉子はただ目を見開く。
加瀬の顔をよく見ようと近づくたびに、冷蔵棚から流れてくる冷えた空気が顔に当たる。加瀬はカゴに野菜を入れながら、莉子を見ずに答える。
「あそこで離れていかれたらキツイなって思ったから、いつも通りな感じで会いたくて」
「いつも通りって、あの時の加瀬、アイスをスプーン変えずにそのまま口に入れてきたり、意識してる?って聞いたり、触ってきたりしたじゃん…」
加瀬は眉をしかめたまま、一瞬、莉子の顔を見て、またすぐに視線を逸らした。
「よく覚えてんな…触ったのは、南が、先輩に触られたとか言うからだろ」
「そうだったっけ…?」
「そうだよ。避けられたくはないけど、意識はしてほしいんだから、いけそうならいくだろ…」
加瀬が気まずさに耐えられないような顔をして、くるりと莉子に背中を向けて、野菜コーナーの奥へ進む。その背中を少しだけ目で追って、笑みが溢れて、加瀬の隣に小走りで向かう。
「加瀬、そんなに私のこと好きだったの?」
「…男をあんまり素直に信じんなよって話だよ…」
顔を覗き込むようにして見る莉子に、加瀬は視線を合わせない。
莉子の口元は先ほどから口角が上がりっぱなしだ。
いかにも肉を選んでいる顔をして、少しだけその耳が赤いのを見つけた莉子は、カゴを持っていない方の腕に自分の腕を絡ませる。
少しだけその身体が強張り、気まずそうな顔をしながら、加瀬がゆっくりと莉子に視線を移した。
「加瀬、可愛いね」
「…なんでだよ…ごめんなキモくて」
「キモくないよ、可愛い」
「…引いてねーの?」
ああ、私が気持ち悪いと、引くと思って、ずっとそんな顔をしてたんだ?そう思うと、余計に口元が緩んでしまう。
莉子は絡めた腕に、ぎゅ、と力を込めた。昨日莉子を包んでくれていたトレンチコートが、莉子の熱を受けて、くしゃり、と皺を寄せる。
「んーん、可愛い。ありがと」
「可愛いのはお前じゃん…」
加瀬が一瞬、ぎゅ、と目を瞑り、ぱちりと開いたかと思えば、目の前にあった鶏もも肉を少し雑にカゴに放り込む。もやしのパッケージの上に置かれた、白いパックが揺れる。
「早く家いこ」
「…うん」
加瀬の肩から、ふっと力が抜けた。その言葉に莉子は思わず笑い、加瀬から離れた。
加瀬は手早く買い物を終わらせ、二人で手を繋いで加瀬の家に向かった。