ひとつの秩序
 
 
 
「で、先輩にちゃんと言った?」

夜の住宅街を歩きながら、駅から続く細い道を並んで歩いている。
加瀬がエコバッグに手際よく詰めた荷物が、加瀬の腕にぶら下がり、反対の手は莉子と繋がれている。加瀬が思い出したかのように莉子の顔を覗き込んで言った言葉に、莉子は口元を歪ませて愛想笑いをする。
その莉子の表情に返事を察したのか、加瀬がため息をつきながら言う。

「ちゃんと言えって言ったじゃん」
「だってタイミングがなくて…」
「やっぱ顔見て揺らいだとか、ない?」

気まずさ故に加瀬から目を逸らしていた莉子だったが、加瀬のその言葉に、慌てて目を合わせる。

「ないよ!ない!むしろ、…」
「…むしろ?」
「……いや…」
「なに?むしろ、なに?」

誤解されたくないという気持ちが全面に出て、つい口から出た言葉が、途中で止まる。
加瀬は腕を少し引いて、莉子に続きを促す。その顔は、少し笑っているようにも見える。

「…むしろ…なんか…早く加瀬に会いたくなったっていうか…」
「はぁ…、本当に、マジで早く家に帰ろ」

空は暗いのに、遠く見える空は紫がかっている。
月がはるか彼方で、小さく白く光る。
莉子は自分で発した言葉に恥ずかしくなり、加瀬の顔色を伺うどころではない。心なしか速くなった加瀬の足元についていくことだけに集中させた。

「お邪魔します」
「どうぞ」

何度目かの加瀬の家には、まだコタツが置かれていた。
前にここに来たときは、加瀬が風邪をひいてて、コタツで寝たなぁと思い出す。

「とりあえず」
「わ、」

加瀬が買い物袋をドサリとテーブルの上に置いて、その音に振り返ったと同時に加瀬の腕に包まれる。予想のしていなかった加瀬の動きに一拍遅れて声が出る。

「あの…コート脱いだり手洗ったりしませんか」
「昨日、もう我慢しないって言ったのにスーパーで我慢した俺えらい」
「それは当たり前では…」

昨日と同じ匂いに包まれて、昨日とは違うスーツが目の前に広がる。
加瀬にそんなことを言いながらも、ずっと私もこうして欲しかった気がする。そう思い、莉子も加瀬の背中に腕を回す。

加瀬がしばらくそのまま莉子を抱きしめた後、少しだけ顔を離して言った。


「…キスしていい?」
「…聞かなくてもいいのに」


顔が、ゆっくりと近づく。
それに伴って、少しだけ顎を上げる。
背中に回っていた加瀬の腕が、首の後ろと、頬にするりと移動する。

伏し目になった瞳が、うっすらと閉じる視界の隅に映る。
きっと、目を瞑るのと同時に触れた唇が、少しだけ押し当てられた。


「……いきなり、がっつくの…キモいかなと思ってたんだけど」


加瀬が唇を離して莉子に言った。
莉子は少しだけ顔を引いて、加瀬の顔を見た。


「昨日、我慢しないって言ったのに?」
「…言ったけど」


先ほどの加瀬の言葉を引き合いに出すと、加瀬は少しだけ気まずそうな顔をした。
なんて、この人は私を大切に触れるんだろう。

ねえ、知ってる?
今日の私の格好、お気に入りの黒のピタッとしたニットに、青みがかったピンクのシフォンスカートなの。
加瀬が好きかなと思って、朝、念入りに濡らしてパーマが出るようにしてきたんだよ。


「…私も、昨日、ちょっとだけならいいって言ったじゃん」
「っ、」


がぷり、と二回目は触れた。
急なそれに、莉子の身体が少しだけ揺れる。
加瀬の手が腰に回り、それを支えるようにして引き寄せる。

「ん、っ」

角度が変わるたびに息が漏れる。
一度離れても、再度重なる。
その直前、角度を探るみたいに少し傾けられる。

息だけが混ざる。
吸うより先に、吐くしかなかった。

体の力が抜けて、どこに神経があるのかすらも分からなくなりそうで、
まるで、

食べられているみたいだ。


「は、っ」

こんな加瀬、知らない。


いつの間にか頬に回っていた手が、ゆっくりと腰に移動した。
顔が離れて、息が漏れる。
加瀬の瞳が熱に侵されているのが分かる。

「…煽んなよ」
「…へへ」
「南って、彼氏にはそんな、かわいくなんの」
「え?」
「どこで覚えたの、そんなん」

加瀬の瞳に自分の顔がいっぱいに写っている。
鼻先が触れ合う距離で、熱い呼吸が頬に流れていく。

「知らな、んっ」

後頭部に回された指が、壊れ物を扱うみたいに繊細なくせに。
指先にぐっと込められている力が、自分に響かないようにされているのが伝わる。

「前の彼氏にも、そんなんしてたの」
「ん、う…っ」

そんなの、こっちのセリフなんですけど。
女っ気ないみたいな顔して、過去のこと何にも私に知らせないくせに、そんな、がぷりと食べて、侵食してくるみたいなキスするの。

「…ごめんな、好きだよ」
「…は、ぁ」

腰を引き寄せる手のひらが、熱い。
静かな部屋に、少しの吐息と夜の気配だけが満ちている。

「ん、ぁ」
「あー…ちょっとストップ」

加瀬が顔を離して、額を合わせるようにした。
焦点が合わない距離なのに、加瀬の今の表情が浮かぶようだ。
きっと、私も同じ顔をしているからだろう。

「止まんなくなる、ごめん」
「…嫌じゃないから、あやまんないで」
「あー、かわいい、でもちょっと一旦やめて」

莉子は加瀬の胸元に顔を預ける。
お互いコートを着たままで、手も洗わず、大人が高校生みたいにがっついて何やっているんだろう、そう思うと少しだけ口元が緩む。それでも、そんな状況の今が楽しくて、どうだっていい。

「明日、ちゃんと言うね」
「え?」
「先輩に。ごめんね、不安にさせてたら」
「…うん」
「ちゃんと、なんて言ったかも教えるね」
「…いや、いいよ」

加瀬の言葉に、莉子は顔を少し上に向けて加瀬を見る。
至近距離で目が合い、加瀬は少しだけ眉を下げるようにして、莉子の目元を大きな手のひらで覆った。

「加瀬?」
「疑ってるわけじゃないし…束縛したいわけでもない」
「別に、いいよ?」

視界が暗くても、そこに触れている加瀬の手のひらの温度が伝わってきて温かい。
顔を見られたくないらしい加瀬が、ポツリと言葉を落とす。

「俺が、余裕ないだけだから。気にすんな、職場での関係も大事だし」
「…急にどうしたの」
「……急っていうか…南の気持ちを尊重したいし…たまにこう、理性が飛ぶだけで」
「飛ぶんだ」
「だって、俺がどんだけ…」

そこで言葉を切った加瀬に、莉子は覆われた手のひらを外して加瀬を見上げる。
加瀬も、思ってもない言葉がこぼれたかのように、気まずそうな顔をして視線を外している。
莉子はそれに口角を上げ、加瀬のスーツに頬を擦り付ける。

「いつから、私のこと好きだったの?」
「…さあな」
「分かんないほど前からなの?」
「知らん。飯作ろ」

加瀬は莉子を最後にぎゅ、と力を込めて抱きしめてからそっと離れた。
そういえばコート着たままだったな、と独り言を呟いて寝室に消えていく。
莉子はその後ろ姿を目で追ってから、無意識に笑みをこぼし、自分もコートを脱いだ。
 

 

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