ひとつの秩序
 
 
 
 

最初っから、誰かのものだったから、手に入る想像なんてついたことなかった。

「今日は何作るのー?」
「…鶏の照り焼き」
「えっ絶対美味しいやつ」

部屋着に着替えて寝室の扉を開けると、ベージュのトレンチコートを脱いだ南が、にこやかにこちらに近づいてくる。
自分の彼女だという自覚は、まだ持てない。揶揄われるから何度も言う気はないが、未だに夢かと思う。

「手伝う」
「座ってていいよ」

キッチンに立つ自分の隣に、ひょこりと立って、こちらを見上げる姿に、理性を抑えつけることはもう、慣れた。

彼女の距離が近いのは、昔からだ。



高校二年の頃、クラスでつるんでいたグループの一人が、南のグループの一人と付き合い始めたのが、仲良くなるきっかけだった。

その頃、南は理系の七組の男と付き合っていた。

なんとなく、すれ違ったり友達のクラスに行った時に、こいつか、と意識することはあったものの、特に何の感情も抱いていなかったように思っていたが、初めて、意識したのは、高校三年の一月に、大阪の大学を志望しているというその彼氏と別れ、南が、泣いていた時。

友達伝いにその話を聞いて、なんと声をかけていいか分からず、遠くからそれを見つめて、落ち着いた頃に、友達と一緒に励ました。
それが、多分、最初の自覚。


大学はお互い地元で、別々の大学だったが、南は大学と家の間だからと、俺の家の近くの焼肉屋でバイトを始めた。
賄いで肉が食べれるからと後付けした理由で、その焼肉屋に後から自分も働いた。
加瀬がいてくれるなら楽しそう、と無邪気に言った南は、あっという間に大学で告白され、新しい彼氏をいつの間にか作っていた。

南は、意外と付き合うと長く、彼氏が途切れても半年程度だったことを思い返すと、あの時にいかなくて良かったのかもしれない。そう思えるのは、今、あの時の自分が報われているからだろうか。



「切ってから焼く?私、切っていい?」
「別に俺が作るからいいのに」
「一緒に作った方が楽しいじゃん」

南が笑うたびに、ピンクの柔らかそうな素材のスカートが、ふわりと揺れる。
黒いニットは、その身体にピッタリと張り付いているようで、それを、本能のままに、できたら、どんなにいいか。


俺は、自分の執念が、時々怖い。



別にずっと一途に思い続けていたわけじゃない。
大学で彼女を作ったりもしたし、普通に遊んだこともある。
考えないようにしていた方が気楽に過ごせると気付いてからは、少し楽にもなった。

いい加減そんな自分にうんざりして、物理的に離れればどうにかなるかと、就職先を東京で探した。
そしたら、南も上京すると言うから、


「お味噌汁、わかめとかある?入れる?」
「あ、その棚に乾燥のやつがある」
「ありがとー」

ふわりと揺れる、ゆるやかにパーマがかかった髪。
東京に来てから、一気に垢抜けた。
いつの間にかメイクが大人っぽくなって、アイラインが細くなり、まつ毛がパチリと上がるようになって、爪に色が乗るようになった。


隣にいられれば幸せだなんて高尚なこと、一度も考えたことない。


お前が、先輩に彼女ができたと言った時、愚痴を聞きながら腹の底では最後のチャンスかなと思った。

うかうかしてると、またそのうち、ポッと出の男に攫われていくと思って、何かあった時に一番に相談されるように、心地いい関係を築いていたと知ったら、南はどう思うかな。

「お皿、ここ置いとくね」
「ありがと」

俺を信頼して、何もかも話してくれている南に、俺は言えないことばかりが増えていく。友達という免罪符に隠れて、虎視眈々と、いつか、俺の手に落ちてくるのを待っている。

先輩が同棲したと南が話した時、俺も、思ったんだ。
男女は、いつか終わりが来るよなって。


だから、最後に、と思って。


どうせいつか、何もしなかったら、その辺の男と結婚して、疎遠になるんだろ。それなら、それが少し早まるかもしれなくても、まぁ、それならそれでいいかなって、


「美味しそうすぎる、早く食べよ」
「じゃあこの箸持ってって」
「あ、この前も出してくれたやつだ」

じわじわと、拒否られない程度の加減を見極めて、少しずつ、態度に出して、そしたら、意識してくれたから、策略的に、友達の皮を被ったまま、

「…専用のやつ、買う?」
「……今度、一緒に買いに行こ」
「…うん」

圧倒的で、勝てない相手がいたのに、今、自分が選ばれている事実が、ずっと信じられなくて、早く、どうにかして、それを確固たるものにしたいと、俺だけしか見えなくなればいいと思っているのに、


「…ついでに、お揃いのなんか買お」
「……っ」


俺の、手の中に、いる。
込み上げてくる気持ちと、理性を、必死に戦わせて、


「っん、かせ、」

今まで我慢してたものが溢れ出るようになって、止まらない。
嫌かもしれないと、引かれるかもしれないと思うのに、そんな顔を見せずに、俺の手の中に収まってくれるから、少しずつ留めていた理性の壁が、ボロボロと崩れていく。


早く、俺だけの、ものになればいいのに。


「ん、食べない、の?、んっ」



俺がわざとなのは、キムチだけじゃないよ。
全部全部狙って、全部全部計算なことは、一生明かさないから、ずっと、そのまま、何も知らないみたいな顔をして、腕の中にいてほしい。


「…あー…止まんねー…」
「んっ、はぁ、か、せ」

唇を合わせるたびに、目を素直に閉じて。弱い力で、必死に俺の肩に手を回して。塗ってきたリップの色、取っちゃってごめんな。がっついてごめん。もっと、大切に扱いたいのに、俺の執念が邪魔をする。

俺だけが映っている瞳に、じわりと溜まった涙を、合間に親指で拭う。

「ね、ん、一回、待って」
「…うん」
「……かせ、私の知らないところで、実は遊んでたの?」

莉子が加瀬の両頬に手を当てる。
面白くなさそうな顔をして見上げてきて、そんな単純な上目遣いすら、もう俺は受け流せなくなっている。

「遊んでねーよ」
「…なんか、…ちょっと…面白くない」
「なんで?」
「…加瀬、慣れてるじゃんって…私何にも、加瀬のそういうこと知らないのに」

莉子はそう言い、加瀬の頬を軽く摘んだ。
むに、と一瞬だけ頬が刺激され、すぐに離れていく。

「ドキドキする?」
「…当たり前じゃん」
「俺のこと、好き?」

するりと出てきた言葉に、自分で恥ずかしくなる。
なんだ、この、付き合いたての高校生のような質問は。なんで俺は、この歳になって、こんなにも必死で、がっついて、余裕がないんだろう。

「…好きだよ。加瀬が言ってくれた分、私もたくさん言うね」
「、」
「ずっと、そばで見ててくれてありがとう。たくさん励ましてくれてありがとう」
「…」


先ほどのせいで、まつ毛に溜まった涙が、キラキラ光っている。
動くたびにふわりと香る柔軟剤と、微かな香水のような香り。

ぴたりとしたニットの奥に感じる、柔らかい肌を、意識したくはないのに。


「私の気持ちを尊重してくれて、優しくて、愛情深くて、気が遣えて、料理上手で、甘やかしてくれる加瀬が、好きだよ」
「…」
「もっと好きなところたくさん言えるように、たくさん一緒に過ごそ」


ああ、本当に、夢かもしれない。
 
 
「っ、好きだよ」
「ん、わたし、もっ、だよ」


きっと、強引だった。
南の気持ちなんて無視して、勝手に最後の勝負に出て、それでも、受け止めてくれた南を、俺は、一生離したくない。
 
 
 
 


 
 
 
 
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