ひとつの秩序
「おはよう」
「おはようございます」
加瀬とは昨日、少し冷めたご飯を温め直して食べて、またキスをして、まったりして、キスをして解散した。
もしかしたらそういう展開になるかと思っていたけれど、何も起きなくて、というか加瀬が我慢をしていることがなんとなく読み取れて、それならそれを尊重してもいいのかも、と莉子も何も言わなかった。
思ったよりも加瀬は、言葉を口に出す方らしく、昨日何度好きと言われ、それに自分がどう応えたかも、覚えていない。
思い出すと年甲斐もなくそれに浸ってしまいそうになる顔を引き締め、パソコンに向かっていると、片倉が出勤した。それに返事をして、昨日の加瀬との会話を思い出す。
とことん莉子の気持ちを尊重してくれる加瀬を、不安にさせたくない。
片倉にも悪いし、早く伝えるべきだ。
そう思って意気込んで片倉の方を見るも、オフィスでいきなり言うわけにもいかず、視線を送ったまま少しだけ固まっていると、片倉がそれに気づいて莉子を見た。
「そういえば明日から四月だから、新人が来るからね」
「あ、はい」
「久我から聞いたみたいだけど、新人教育に入ってもらうね」
「わかりました」
「でも多分、明日はコンペの結果が来るし、もし通ったらしばらくまた忙しくなるから、今日のうちにちょっと色々考えておいて」
「はい」
考えるだけで忙しくなりそうで、莉子は目を瞬きながら返事をした。
片倉は莉子の様子に、ふ、と笑って目を細めた。
「懐かしいね、あの時の新人の南が、新人を持つんだね」
「怖いです、ちゃんとできるか」
「できるよ、まぁ、ゆるくやればいいからさ」
「はい…」
「…じゃあ、今日は夕方打ち合わせあるから、それもよろしくね」
「はい…」
そう言って片倉は、コーヒーでも淹れてくるのか、シェアスペースの方に消えていった。莉子は無意識のうちに溜めていた息を少し吐いて、パソコンの方に視線を戻した。
今日は、夕方から片倉と打ち合わせの予定だった。
もうほとんど終わりかけた案件で、最終打ち合わせの後、施工の別会社へと引き継がれる予定で、その最終確認だった。
この会社に打ち合わせに最初に来た帰り道で、片倉に抱きしめられて、次の時に、思いを告げられた。そしてこの案件の終わりと共に、片倉を、振るというのはなんの因果か。
莉子はチラリと隣を歩く片倉を見た。
コンペの最終打ち合わせで、好きだったと伝えてきた片倉は、夜景の見えるレストランで、莉子を翻弄してきた時のような、余裕を感じる表情はなくて、まるで、泣きそうだったと思った。
でも、加瀬が好きだと、大事にしたいと気づいた今、しっかりと伝えなくては。そう思って、再び前を向いて、隣を歩いた。
「ひと段落ついたね」
「そうですね」
最終確認はサクサクと終わり、あの時のように長引くようなことにはならなかった。会社を出た時間は、十七時過ぎで、まだ少しだけ明るい。
あれから、二ヶ月弱が経った。陽があの時よりも長く伸びていて、街灯だけに照らされていたあの時とは違った。
「…なんか、嫌な話がありそうだね?」
「え、」
どのように切り出そうか、そう思っていると、隣から片倉が莉子に声をかけた。思わず莉子が顔をあげると、片倉は莉子を優しく見つめていた。
「なんで、」
「なんか、気負った顔してるなって」
「え…」
「朝からなんかちょっと固いし、もしかして、嫌な話かなって」
「…」
言い方も、優しくて、穏やかで、いつもの片倉と変わらない。
莉子は無意識に唾を大きく飲み込み、喉を鳴らした。
片倉は、その場で、すぐそばにあったビルの壁にもたれかかった。
遠くで、群青色の空がグラデーションになっている。
「…内容、わかってても聞かなきゃダメ?」
「……わたし、」
片倉の、あの時の黒の分厚いコートは、薄手のベージュのトレンチコートになっている。
あの時、莉子を抱きしめた時の匂いが、風に乗って鼻のそばを通り抜ける。
「…いいよ、区切りだもんね」
「……あの時の、友達と、…付き合うことにしました」
「…そう」
コンクリートの隙間に、夕方の冷たい影が伸びている。
運河からの風が吹くたびに、コートの端がひらりと揺れる。
「先輩のことは、ずっと好きで…彼女ができたって、同棲って聞いて、もう諦めなきゃって思ってて」
「…」
「今でも尊敬してて、憧れで、格好いいなって気持ちは、変わらなくて、ずっと、追いつきたい、です。先輩に、色々言ってもらえて、ドキドキもしたし、嬉しかったし、でも…」
「…遅かった?」
足元を見てしまいたい。
目を逸らせたら、どんなにいいか。
でも、先輩は、まっすぐ、伝えてくれたから、
「ごめんな、さい」
もっと、色々、あったと思った。
あの時の私は、ちゃんと、先輩に、揺れていた。
でも、他に何も、言えなかった。
片倉はしばらく黙っていた。
「…憧れの先輩では、いさせてくれる?」
「は、いっ、先輩は、いつまでも、ずっと、憧れです、私っ」
泣いてはいけない。
そう思って目を見開いて耐えようとしても、込み上げてくるものに、抗えなかった。
「…なんで泣くの」
「っせんぱいと、お付き合いできなくても、私、後輩で、いたいです、まだまだ、教えて欲しいです」
なんで、泣くんだろう。悲しいのか、泣くような立場じゃないのに、
ああ、怖いのか、私は。
多分、もっと強引にしようと思ったら、できた。それでも、無理に奪おうとしなくて、ちゃんと向き合ってくれて、待ってくれて、誠実だった。
嫌いになったわけじゃない、選ばなかっただけだ。
仕事の判断も、迷った時の視線も、失敗した時の逃げ道も、いつの間にか、全部無くしたような気持ちになっていた気がした。
きっと、前に静が言ったみたいに、片倉と付き合ったら、きっとそれも、幸せになるんだろう。仕事の話もできて、感覚も共有できて、趣味も合って、きっと、莉子をずっと慈しんで、幸せにしてくれる。
片倉についていけば、安心できた。
この人を指標にしてきた。それを、失ってしまうようで、それが、とても、怖い。
「…当たり前じゃん。南は俺が育てたって、言ったでしょ」
「は、い」
「それはずっと変わらないし、俺もまだまだ、教えたいよ」
「っは、い」
「泣かないの。俺に涙拭かれてもいいの?」
片倉の言葉に、莉子は頬の涙を手のひらで急いで拭う。
その様子を、先ほどと変わらない表情で、片倉は見ている。
「…元々、選ばれなくても、先輩では居させてねって言ってたでしょ」
「……」
「覚悟してたから、大丈夫だよ。今まで通り」
「っ」
その言葉が、やけに軽く聞こえた。
片倉は莉子の肩を軽く叩いた。
いつもの、励ます時の感触を思い出して、また涙が出そうになるのを唇を噛んで堪える。
「ていうか、俺、諦めないし」
「えっ」
「南だって、俺に彼女ができても好きで居てくれたでしょ?」
「それは、」
片倉は少しだけ口角を上げて言った。
いつもの余裕そうな表情と、何も変わらなさそうに見える。
「だから、別に関係ないよね」
「え、でも、」
「だってその友達といつか別れるかもだし、そうしたら問題なくなるし」
「え、いや」
「あ、もうデートに誘ったり攻めたりはしないよ。普通の先輩としてちゃんと接します」
いつの間にか日が落ちている。
莉子の涙も片倉の言葉に止まり、目が泳ぐ。
その様子を、片倉はニコリと笑いながら見つめる。
「無害な先輩にちゃんと戻るけど、なんかあったら、遠慮なくいくから」
「いや、その」
「って、その彼氏になった友達に言っておいてね」
「えっ」
「さ、まだ夜は冷えるし帰ろ。よかったね言えて。スッキリした?」
「スッキリ…してない気が…」
片倉が莉子の背中を軽く押して、駅まで歩くように促す。
え?さっきまで、すっごいセンチメンタルな気持ちだったのに、やっとの思いで言ったのに、なんか伝わったはずなのに、伝わってないみたいな感触なんですけど…?
「そういえば言ってなかったけど、今、住んでるの明大前なんだ」
「はい…」
「南の最寄り駅まで、タクシーで十五分で行けるから」
「はい…?」
「それも、彼氏に言っておいて」
「…なんでですか?」
「ん?俺、性格悪いから」
「ええ…」
思っていた空気とまるで違う。
もしかして、私の気持ちが軽くなるように、言ってくれた?そう一瞬思ったものの、加瀬に言っておいてとの言葉を思い出し、違う気がするなとも思う。
どこか楽しそうに聞こえる口調の片倉に、すっかり莉子の涙も乾いている。
危惧していたようなことにはならなかったけど、でもちょっと加瀬になんて言おうか、むしろなんかややこしくなってしまった気がする。そう思いながらも、行きよりも足取りが軽い。
これは加瀬には言えないな。そう思いながら、片倉と並んで駅までの道を歩いた。そのまま無言で移動し、乗り換え駅の改札前で立ち止まって、軽く会釈をする。
片倉は穏やかに笑って手を振って去って行った。
それなのに、胸の奥が、じんわりと痛む。恋ではなくなった感情の置き場を、私はまだ、知らない。