ひとつの秩序
第五章
「あれ?南早くない?」
「だって今日から新卒来るんですよね?ちょっと早めに出勤しておいた方がいいかなって思って…」
「偉いわねー、ついに南が先輩かー」
いつもより家を早く出て、職場に三十分前に入った莉子に、早く出勤していた静が声をかけた。隣の片倉はいつも通り九時に出勤なのだろう。
まだ誰も使っていない、整頓されたデスクを見て、昨日のことを思い出す。
昨日、加瀬とのことを伝えて、スッキリしたような、していないような気持ちだが、昨日よりも晴れやかだ。
莉子は端の席なので、新人は前の席でいいか、と思い、人事から貸し出されたパソコンをセットしたり、自分の中の一年目のメモ書きや資料に再度目を通し、背筋の伸びた気持ちで、背後から差してくる朝の光を浴びた。
「新卒の夏目くんです」
ミーティングの最初、まずはじめに静がそう紹介すると、男の子は一歩前に出て、ぺこりと深く頭を下げた。
「本日からお世話になります。夏目《なつめ》大和《やまと》です」
声は落ち着いていて、少し低めで、想像していたよりも、幼さがない。
切れ長の目に、黒目がちの瞳。派手ではないけれど、整った顔立ちで、どこか中性的な雰囲気があるなあ、と莉子は見つめた。
「南です。今日から私が新人教育担当になります」
「あ、はい。よろしくお願いします」
ミーティングの後、莉子は声をかけてデスクを案内した。
夏目はまた一度、きちんと頭を下げてから、少しだけ視線を上げた。
「よろしくね。今日はね、あんまり実務はやらないから」
「え、そうなんですか」
「会社の資料とか、過去の案件とか見てもらう感じ。分からない言葉があったら、メモしておいて」
「あ、はい、わかりました」
パソコンの設定やパスワードなどの基本的なことや資料を伝えると、真新しいメモ帳に一生懸命メモをしている。こういう時にペンとメモでアナログなのが、新人っぽいなと思って笑みが溢れる。自分もそうしていたはずだが、あの時の片倉も同じように感じていたのだろうか。
「あ、ちょっと私今から一時間くらいミーティングあるから、抜けるけど、色々みてていいしチャットは返せるから、さっき教えたところからなんかあったら私に送ってきてね」
「わかりました」
夏目のパソコンの右上の時間を見ると、ミーティングの時間が迫っていた。急いで向かいのデスクから自分のノートパソコンをつかみ、指定されていた会議室に早歩きで向かう。
会議室のドアは開けっぱなしになっていて、モニターには資料が映されていた。片倉と静はもう座っていて、軽く雑談をしている様子だった。
「すみませんギリギリになりました」
「いいよ、どう?夏目くん」
「大人しそうな感じで、なんでもハイって聞いてくれます」
「新卒は四年ぶりだものねー、ここ数年は中途が多かったし」
静と片倉が、莉子をみながらそう言った。
莉子も二人に返事をしながら、ドアを閉めて静の隣に座る。
「じゃあ、早速始めるね」
片倉が画面を切り替え、メールを映す。
件名を見た瞬間、莉子の背中に、じわっと緊張が走った。
「一次、通過です。三社に残ったとのこと。詳細はこのあと別途」
淡々とした声だった。片倉に思わず目を向けると、片倉も莉子を見てニコ、と微笑んだ。
「ふう」
「とりあえず、残ったね」
「そうね」
静が小さく息を吐いて、口角を上げる。
莉子はこの、静の綺麗な顔が少し歪んで、楽しそうにする顔が好きだ。
まるで今から美味しいご馳走を食べるかのような、ワクワクしたような顔。
「じゃあ、スケジュール詰めようか。二次は一週間後」
「修正、結構入りそうですよね」
「質問、あそこ突かれたしね」
喜びは、ほんの一瞬で、すぐに、次の段取りの話になる。
莉子は、モニターの隅に映る自分の顔を一瞬だけ見た。
思ったより落ち着けている自分がいることに、なんとなくソワソワした気持ちになる。
「今回の評価、南のプレゼン部分が大きかったと思う」
「本当ですか!」
「二次も、同じ構成でいこう。細かい言い回しは詰めるけど」
「はい」
片倉に褒められても、胸が高鳴るより先に、頭の中ではもう作業工程が回り始めている。嬉しい、楽しい、ワクワクする、でも少しだけ怖い。
「南はOJT任せてあるし大変だと思うけど、そっちは最初、過去案件と資料読みでいい。無理に入れなくていいから」
「はい」
「なんかあったら私入れるし、言ってね」
「ありがとうございます!」
そこから会議で内容を詰め、一時間後に解散となった。
片倉と静は次が詰まっているらしく、片付けを莉子に任せてすぐに部屋から出ていった。
それを見送って、莉子は画面を閉じて、椅子にもたれかかる。
空調の音がやけに大きい。さっきと温度は変わっていないのに、耳に入ってこなかった。
コンペ、OJT、次の準備。頭は完全に仕事モードのまま。
やることが沢山あって、考えないといけないことが沢山あって、焦る気持ちもあるけれど挑戦できる気持ちが嬉しいし、今の状況は楽しい。
ああ、なんか加瀬に会いたいかも。
莉子はスマホを開いて、加瀬にその旨を送って、デスクで待っているであろう夏目のところに戻った。
「お疲れ」
「かせ〜〜」
「どうした」
駅から少し歩いたところにある、地下一階の和食チェーン店で、加瀬と待ち合わせた。先に店に入っていた加瀬の隣に案内される。
時間は二十時を超えていて、仕事帰りの人々で店内は満席だ。
狭い通路の中央のカウンター席に座ると同時に気の抜けた声が漏れ、加瀬は笑いながら莉子の荷物を受け取ってカウンター下のカゴに入れてくれる。
「疲れたよ〜」
「別に、俺んちでも良かったのに」
「だって毎回ご飯作ってもらうの申し訳ないし…」
「いいんだよ俺も食べるし。帰りに送るのも負担じゃないし、外で食べたい気分じゃなかったら、次から遠慮なく来いよ」
「…彼女だから?」
「ふ、そうだよ」
加瀬は莉子の言葉に笑いながら、莉子の目の前にメニューを広げた。
自分はもう決めたのか、タッチパネルには既に何か入力されていた。
「でも、加瀬の家だと、こないだみたいに帰るの遅くなっちゃうもん」
「あー、まぁなー、それは俺が悪いなー」
「次の日、遅くなってもいいなって日に行く」
「あー、キスしていい?」
「ダメに決まってんじゃん」
冗談っぽく言う割に、顔は本気そうなのが厄介なんだよな、と莉子は軽くいなしながら思う。
期間限定と表示されている、季節の野菜と鶏の黒酢あん、という画面をタップしながら莉子は加瀬の顔をチラリと見た。
両思いになった、彼氏彼女になった、キスもした、さあ次といった具合なのだろうが、そこをなんとなく探られている感じがするような、しないような。
「まぁ、でも実際歩くと俺の家から南の家はちょっと距離あるし。忙しいんだろ?」
「うん、コンペ通ったけどOJTもあってキャパ限界」
「負担なら俺のこと気にしなくていいし、体調気をつけてゆっくり休めよ」
「負担じゃないもん、会いたいなと思ったから今日だって誘ったんだし」
「あー」
「しないよ」
「噛み締めてる」
何を?と笑いながら言う莉子に、加瀬はわざとらしく表情を作り、幸せを。と言った。口元が緩む中、タブレットの送信ボタンを押して、莉子はそれを元の位置に戻す。
「今週末、デートしようね」
「うん、どこ行こうなー」
注文した定食が届くまで、三日後の週末の予定を話しているだけであっという間に時間が過ぎた。混んでた店内ではその後も長居せず、加瀬に送ってもらって莉子はそのまま帰宅した。
無理すんなよ、と家の前で数秒だけ抱きしめ、キスをしていった加瀬に、なんとなく物足りなく感じてしまったのは気のせいだろうか。