ひとつの秩序
「ほら、色々買ってきたから」
「ありがとう〜〜」
土日、加瀬と買い物にでも行こうと話していたのだが、急遽変更となった。
玄関で靴を脱ぎながら、加瀬がビニール袋を差し出す。
莉子はそれを受け取りながら情けない声を出していた。
「体調、大丈夫?」
「うん、熱もないし、本当に疲れただけなのかも」
金曜、コンペの内容を詰めた後に、夏目用に資料を作成してから帰路についていると、頭が痛くてなんだか体が重くて、疲れていると、はっきり自覚できるほどだったので、加瀬に連絡して買い物は延期してもらった。
「無理すんな、今週はゆっくり休んで」
「ごめんね」
「いいよ、俺は買い物に行きたかったっていうより、会いたかっただけだから」
「…とりあえず、上がって」
「うん、お邪魔します」
加瀬はスリッパをぺたりと言わせながら、莉子の後に着いてきた。
莉子がソファを手で指すと、加瀬は、遠慮がちにそこに座った。
「ちょっとしたら帰るよ」
「そうなの?」
「俺いたらゆっくり休めないだろ」
「…加瀬はなんか予定あるの?」
ソファに座って何もついていないテレビを見つめながら言う加瀬に、莉子は思わず問いかける。
「ないけど。体調優先して欲しいし」
「…じゃあちょっとそばにいて欲しい」
「……いいけど、俺は」
加瀬は、莉子の言葉に少し戸惑った様子だった。
黒のダボっとしたパンツのポケットに入れていた手を出して、ダイニングテーブルのところで立っている莉子の方に向けて、手招きをした。
「…嫌だった?熱があるわけじゃないし、移らないとは思うんだけど…」
「嫌なわけないじゃん。風邪だとしてもいいよ別に」
加瀬の、グレーのスウェット生地のトレーナーからは、重ね着された白いシャツがチラリと見えている。その裾を少し避けるようにして、莉子は隣に座った。
「前の、可愛いモコモコしたやつは着ねーの?」
「あれはパジャマだから、流石に」
「前も見たのに」
「ふふ、そういえば髪もボサボサだったねあの時は」
「そうだったっけ」
部屋でダラダラする予定とはいえ、さすがにパジャマは無いよなと思った莉子は、軽く化粧もしていた。服装はキャミソールの上に、厚手の白いVネックカーディガンを羽織り、ボタンは全部留めている。
下は着心地のいい、アイボリーのゆるっとしたパンツで、部屋着でもあり、一応このまま外に出ても大丈夫な格好だ。
「なんか、加瀬にはダメなところ全部見られてるから、ゆるくいられる」
「それは良かった」
「加瀬もダメなところ見せていいよ」
「もう多分いっぱい見てきてるだろ」
莉子はふふ、と笑って隣の加瀬の肩に頭を乗せた。
加瀬は何も言わずそれを受け入れ、莉子の手をゆっくりと握った。
「…甘えてんの?」
「…うん。ダメだった?」
「全然。嬉しいけど」
何もついていないテレビの上に掛けてある時計を見ると、まだ朝の十一時だった。
加瀬は何時までいてくれるんだろう。きっと頼めば、ずっといてくれそうな気がする。
疲れているからゆっくりしたいかも、と言ったのに私の体調を優先してくれて、のんびり過ごすことを嬉しいと言ってくれて、なんか、愛されているということを行動や言葉の全てから改めて実感する。
「……」
チラリと顔の向きを変えると、加瀬とパチリと目が合った。
そのまま視線を外さない。
加瀬も、莉子を見つめる。
「…どうした」
すぐ見上げた先に、加瀬の顔がある。
さらりとした毛質の前髪が、少し落ちて顔にかかっている。
その髪の毛が影になって、加瀬の表情を少しだけ暗く見せている。
「…今日は、キスしていい?って聞かないの」
「……していいの」
「…うん」
加瀬の顔が、ゆっくりと近づく。
肩にもたれかけていた莉子の頭が、ゆっくりとそこから外され、優しく後頭部に手が回る。
少しだけ切長の、加瀬の瞳が伏し目がちになっている、そう認識した時には、唇が合わさっていた。
「……」
数秒だけ合わさったそれは、二回だけ繰り返され、離れた。
加瀬の手の位置が変わり、ソファが、ぎし、と少しだけ音を立てた。
「…遠慮、してるの?」
「……そりゃ、するよ」
「なんで?」
「…なんでって…そんな、俺の欲だけで動くのは違うじゃん…」
加瀬は気まずそうに目線を逸らし、元の位置に身体を戻した。
莉子の右手は、握られたままだ。
「…別に、加瀬の欲だけじゃないと思うんですけど…」
「……やめろよ」
加瀬が繋いでいない方の腕で自分の顔を隠した。
莉子はその様子を横目で見つめる。
「…加瀬」
「……なに」
「………しないの?」
「…煽んな、って」
時計の秒針が、小さい音で動いている。
加瀬の言葉が耳に届いた時には、ソファに押し倒されていた。
「んっ」
「俺が我慢してんのに…」
くるりと反転した視界で、唇が触れた後、加瀬の顔が遠のいていく。余裕の無さそうな気まずそうな顔に、ぞくりとする。
その顔がもっと見たくなって、莉子はつい、加瀬の肩に腕を伸ばす。
「なんで我慢してるの?」
「…南の体調が悪いのに、俺の欲を優先したくない。あと、こんな、南の家のソファで流れでとか、嫌だ」
「…可愛い」
「…どうせ俺は、乙女メルヘン大男だよ……」
加瀬はそのまま項垂れるようにして、莉子の顔の横に、自分の顔を埋めた。
葛藤があるようで、そのまま頭を左右に振る。
「ふふ、大切にしてくれてありがとう」
「……俺の忍耐力、なめんなよ…」
「いつから私のこと好きなんだっけ?」
「…だから…言わねーって…」
気の抜けた声が耳元で聞こえて、少しだけくすぐったい。
少し意地悪しすぎてしまったかもしれない。莉子はそう思って、加瀬に声をかける。
「我慢、しんどい?」
「しんどくはねーよ…ただの戦いだよ俺と俺の」
「おもしろい」
「だから俺を煽るな…体調万全にしてくれ、まず」
顔を見たくなって起きあがろうとすると、加瀬の力も抜けて、元の姿勢に戻った。
なんだか、加瀬の中で葛藤もあって、守りたいラインもあるみたいだし、あんまり私は気にしないんだけど、それを尊重してあげたほうが良さそう?
そんなことを思い、莉子は隣の加瀬をチラリと見た。
「じゃあ、お言葉に甘えて、ベッドで寝てようかな」
「おー、休め休め」
「加瀬も一緒に寝る?」
「話聞いてた?」
「ふふ」
「ふふじゃねーよ」
ソファから立ち、寝室に行くと加瀬も前回のように着いてきた。
流石にこのまま加瀬も布団に入ることはしないだろう、と思っていると、莉子がベッドで寝転ぶよりも先に、前回と同じように、加瀬はベッドの脇にもたれてラグの上に座った。
「…いるから、そばに」
「ありがと」
「俺の戦いのためにも、早く元気になれ」
「ふふ、うん」
ベッドに入ると、加瀬がチラリと莉子を見て、手を差し出してきた。
莉子は布団から自分の手を出し、その手を握る。
「そういえば、先輩に話したよ」
「おー」
「非常に加瀬には言いにくいんですが、今から先輩に言われたことをそのまま伝えます」
「は?」
加瀬が怪訝な顔をして振り返る。
莉子は目線を合わせず、布団を鼻まで捲りあげて、先日の会話の内容をそのまま伝える。
「…さっき紳士ぶった自分を殴りたい」
「え?」
「……早く体調直してくれ…」
「…はい…」
繋がった手がじとりと熱を持っている。
来週は楽しく一緒に過ごせるだろうか。煽ってしまった自覚も、片倉の発言の意味も理解している手前、買い物ではなく加瀬の家でゆっくり過ごした方が良さそうかもしれない、と思いながら、莉子は目を瞑った。