ひとつの秩序
 
 
 
 


「お疲れ」
「来てくれてありがとね」
「うん、ちょっとしたら帰るわ、平日だし」

二十一時ごろ、莉子の家のインターホンを鳴らし、スーツ姿の加瀬が莉子の家の玄関で靴を脱ぐ。

「ご飯、まだだよね?作った」
「え、マジで」
「簡単なものだけど」
「嬉しい、食う」

スリッパをパタパタと鳴らし、加瀬がダイニングテーブルに並べられた料理を見て感嘆の声を上げた。親子丼と、白菜とにんじんの味噌汁、小松菜のナムルなので、そこまで難しいものでもないのだが、加瀬が目を輝かせているのを見ると、作って良かったと胸を撫で下ろした。

「明後日、どこ行く?」
「うっま、うっっまい」
「…ありがとう」

ジャケットだけ脱いで、腕まくりをして豪快に食べてくれる加瀬に、莉子の口角も上がる。まさか加瀬を家に呼んで、料理を振る舞うことになるとは、人生分からないものだな、なんて思う。

「すっげえ美味い、ありがとう」
「…こちらこそ、そんなに喜んでもらえて嬉しいよ」
「食べ終わったら速攻で抱きしめに行くから待ってろ」
「ゆっくり食べてください」

お腹が空いていたのか、加瀬は勢いよく丼をかき込んでいく。
それを眺めているだけで、じわじわと幸せな気持ちが込み上げてきた。

「明後日、どこ行こうか」
「ふふ、ちゃんと聞いてたの」
「当たり前だろ。何したい?」
「…食器、買いたいかも」
「食器?」

加瀬は、丼から視線をあげて、ちらりと莉子を見た。
すぐに目線が降りるのは、それほどまでにお腹が空いていたのか、それとも好みの味だったのか。

「…加瀬が、美味しそうに食べてくれるから、加瀬のお茶碗、買おっかなって」
「……やば」
「なに」
「…好きすぎる」
「…なに言ってんの」

向かい合わせで、しばらく目が合っていた。
さっきまで勢いよく動いていた加瀬の箸が止まり、莉子をじっと見つめた。
ため息をつくように漏れた言葉が、莉子の胸を締め付ける。

「…じゃあ、俺んちに置いておく箸も買お」
「うん」
「ごちそうさまでした」
「早っ」
「美味かった、ほんとありがとう」
「どういたしまして」

加瀬が手を合わせて挨拶をした。莉子が片付けようと席を立つと、自分でやるから、と加瀬が断り、シンクに食器を下げに行った。莉子が加瀬にお礼を言いながら、その姿を眺める。

「桜とか、ちょっと見たいかも」
「あーいいじゃん。じゃあ上野らへんか?」
「混んでるかな」
「調べとくわ」

加瀬がそう言いながら、レバーを下げて水を止めた。洗い終わったらしい。
置いておいていいよ、という莉子に、加瀬は頷き、足早に莉子の元に来た。

「…どうしたの」
「抱きしめに来た」
「そうだった」

柔らかい笑みを浮かべる目の前の加瀬に、莉子も思わず口角が上がった。
そのまま加瀬が莉子の手を取り、引っ張り上げた。莉子が自ら加瀬の胸に飛び込むと、加瀬は莉子をきつく抱きしめた。

「ありがとな」
「ん?」
「親子丼。美味かった」
「もう充分すぎるくらいお礼言ってもらったよ」

背中に回る大きな手が温かくて心地良くて、莉子は目を閉じてその温度に浸る。
こんなに喜んでくれるなら、また作ろう。そう思いながら、加瀬の胸元に顔を埋めた。

「あー、やばい、帰りたくなくなる」
「楽しみだね、週末」

泊まっていく?という提案も頭に思い浮かんだが、先日の加瀬の葛藤を思い出し、莉子は口に出さなかった。加瀬の匂いが広がり、安心する。

「あ、そうだ、渡そうと思って入れっぱだったんだけど」


加瀬が身体を離し、フローリングに置かれていたビジネスリュックから、キーケースを取り出した。そこから一つ、鍵を取り出して、莉子に渡した。

「え、」
「なんかあったら来ていいから。今日みたいな時とか、家で待っててくれてもいいし」
「……」
「早い?キモい?」

手のひらに落とされた鍵が、ひんやりと冷たい。それを受け取った莉子の手を、加瀬が上から大きな手でそっと包み込む。
すると黙っている莉子に不安になったのか、加瀬が莉子の顔を覗き込むようにして言った。

「ふ、キモくないよ、嬉しい」
「俺がいなくても、いていいよ」
「加瀬がいないのに、私だけいるの?」
「うん、なんか今日みたいな、しんどかった日とか、もし俺に会いたいなって思ってくれるんだったら、その方が早く会えるし」

まぁ、俺がこっちに来たっていいんだけど、一応な。と少しだけ言い訳をするようにして加瀬が微笑みながら言った。莉子は緩む口元を隠そうとせず、再び加瀬に抱きついた。

「ありがと、私の部屋の鍵もいる?」
「俺は南がいない時に入ることはねーし、なくしたら怖いからいいよ」
「なくさないでしょ」
「なくさないけど。南の家って…なんか、神聖な感じがするじゃん」
「神聖って何」
「なんか…汚しちゃいけない感じ」

何それ、と莉子は笑いながら返した。
その言葉を吐く加瀬の視線が、莉子の部屋の隅々をゆっくりとなぞる。
加瀬は身体を離し、莉子の手を引っ張ってソファに誘導した。
座らせられ、沈むソファの隣に、遅れて加瀬も座る。

「でも、私の家に来てくれたらご飯作っておけるよ」
「それは確かにアツい」

そう言いながら、加瀬がじりじりと隣から圧力をかけてくるように近寄るので、莉子は身体を少し捩って加瀬の方に向け、両手を広げた。

「ん」
「あー…それって無自覚で煽ってる?分かってやってる?」
「これも煽ってるになるの」
「無自覚かー、ならしょうがねー」
「ん、っ」

加瀬の唇が勢いよく触れ、その勢いのまま、莉子の身体がソファに倒れていく。
加瀬が覆いかぶさった瞬間、莉子の体がソファに深く沈み、スプリングが鳴る小さな音が鳴った。
平日の静かな夜に、吐息だけが漂っている。

「ん、ふ、」
「南、」
「ん、?」
「みなみ」
「ふ、」

唇が少しだけ離れて、唇同士が擦れるくらいの距離で、加瀬が言葉を溢す。
莉子が返事をしようとするとまた塞がれて、髪の毛がソファと擦れて、動く度に微かに音が漏れていく。

「好き」
「ん、か、」
「めっちゃ好き」
「かせ、」
「好きになってくれてありがとう」
「んう、」

付き合ってから、加瀬は思ったよりも愛情表現をする人なんだ、と思った。
あんまり気持ちを言葉にするのは得意そうじゃないし、言葉の数が多い方ではないような気がしていたけれど、加瀬はいつも、好きだと言葉にしてくれる。言葉にしなくても、行動や、目線が、すべて物語っているというのに。

「好きだよ」
「わた、しも」

息継ぎをするので精一杯になりながらも、莉子は言葉を返した。
きっと加瀬は、今日も我慢をするんだろう。我慢してるのは私もなんだけど、と言ったら、どんな反応をするだろう。

きっともっと葛藤した顔をするだろうから、言うのはやめておこうと思いながら、莉子は加瀬に応じた。

早く、土曜日にならないかな。
 
 
  

 
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