ひとつの秩序
 
 
 
 
「よ」
「…よ」
「何それ」

加瀬がふ、と口元を崩したように笑う。
そっちが先に言ったんじゃん、いつもならそう返すのに、莉子はなんだか調子が出ない。
付き合う前もお出かけはそれなりにしてきていたのに、付き合ってからのちゃんとしたお出かけは初めてだ。デート、という響きが自分を翻弄させている気がする。

莉子の家に迎えにきてくれた加瀬と、一緒に電車に乗って目的地に向かった。

「マグカップも買う?」
「あー、マグカップは、いい感じのがあったからネットで買った」
「え?買ってくれたの?」
「うん、勝手にごめん」
「加瀬が選んでくれたの?」
「うん…気にいるか分かんないけど」
「嬉しい、ありがとう!もう届いたの?」
「うん、家にある」

加瀬が少しだけ気まずそうに、莉子に言った。
相談なく買ったことに対してだろうが、加瀬の家に置いておくんだし、加瀬が気に入ったものを買ってもらって構わないと思っていた莉子は、素直に嬉しいと感じた。

加瀬の家にあるものはシンプルで無地が多いから、そんな感じかな。意外とキャラものだったら面白いかもしれない。莉子はそう思いながら、加瀬が譲ってくれた電車の座席に揺られ、目の前で吊り革を掴んで立っている加瀬を見上げた。

今日の加瀬は、太めの白のデニムに、黒のトレーナーを着ていた。
トレーナーの裾から重ね着してある白のTシャツが覗いている。
いつの間にかコートはいらない気候になっていて、加瀬の春の私服を見るのも初めてかもしれない。


浅草の少し手前にある、料理の街で降りて、古い商店が立ち並ぶ道を歩きながら、莉子は言った。

「じゃあ、お箸買う?」
「そうだなー、いい感じの皿があったらそれも」
「加瀬の家、シンプルな白のやつしかないもんね」
「逆に俺が和食器とか揃えてたら変だろ」
「おもしろい」

加瀬が、自然と莉子の手を握る。
莉子も少しの力を込めて、握り返す。
話している内容は今までと変わらないのに、指先と、身体の距離が違う。
腕と腕が擦れるくらいの距離で、食器を覗き込む際の顔の位置も、すぐ隣にある。

抱きしめられたりキスしたりしているはずなのに、それだけのことで関係の変化を改めて実感することになるとは思わなかった。


















「美味しかった」
「それは良かった」

お揃いの箸と、お揃いのプレートをそれぞれ購入し、桜でも見に行こうとなったが、目星をつけていた公園が思ったよりも混雑していたので、さらりと見て、平日に行こうとなった。
スーパーに寄ってから加瀬の家で、加瀬が作ってくれた夕飯を食べた。
適当だから、と加瀬は言うが、毎回ご飯と汁物、メインと簡単な副菜が出てくるあたり、きっと加瀬の家ではこれが日常だったんだろうなと莉子は思う。

今日は加瀬が、豚丼とキャベツのゆかり和え、味噌汁をササッと作ってくれた。
莉子は面倒が勝ってしまい、そこまでしっかり料理することは稀だが、加瀬は食べることがそもそも好きなだけあって、それなりに栄養バランスや調理にはこだわっているようで、加瀬の方がきっと料理は上手だ。

「ごちそうさまでした」
「はい、ゆっくりしてて」

加瀬が食器を持ってダイニングから立ち上がり、莉子も皿洗いくらいは、とそれに倣う。莉子の家はカウンターキッチンだが、加瀬の家は壁付きのキッチンなため、加瀬が料理していたり洗い物をしていたりする後ろ姿を見るのが、なんとなく好きだということに最近気づいた。





「そういえば、コタツがなくなってる」
「さすがにもう暑いだろ」

四月の初めとなれば、確かにコタツはいらないだろう。
加瀬の看病をしたり、鍋をしたりと、いろいろな出来事があったコタツの布団はなくなり、ただのローテーブルに変わっていた。

剥き出しの木の足が、季節の変化も感じさせる。
加瀬と莉子は、ソファに二人で座りながら、テレビを見ていた。

「あ、そういえばデザートとか買ってこなかったけど」
「ほんとだ。加瀬なんか欲しい?買ってくる?」

莉子が立ち上がろうとすると、それを察知した加瀬が、腕をぐい、と引っ張って止めた。少しだけ浮かしていたお尻が、勢いよく、ソファのグレーの布の奥へと沈み込む。

「いい、南が欲しいかなって思っただけ」
「…だいじょうぶ」

加瀬の顔がさっきより少しだけ近くて、テレビを見ていた少し切れ長の瞳が、、莉子を射抜くように見つめる。


あ、これ、やばいかも。


「みなみ、」


加瀬の声が耳に届いたと同時に、唇が静かに触れる。
最初から、角度がついていた。
微かに開かれた加瀬の唇が、啄むようにして莉子を少しずつ侵食していく。


「か、せ、待っ」
「…俺はいくらでも待てるけど、いいの?」


だんだんと深くなる唇が、熱くなっていく吐息が、疼いていく身体が、なんだか知らないものみたいで怖かった。


加瀬が唇を離して、莉子を見ていた。

いつの間にか視界は反転していて、さっきまでは手をついていたソファの布が、莉子の身体の下にあった。
ざらりと太ももの素肌に擦れる生地の感触が、スカートが乱れていることを伝えてくる。

加瀬に可愛いと思って欲しいと昨日の夜に選んだ、薄いブルーのシャツワンピース。
Aラインで広がるスカートの裾が、加瀬の膝の下で、くしゃりと歪んでいた。



とっくに変わった関係が、今度こそ戻れなくなるようで怖かった。
戻りたいなんて、一ミリも思っていないのに。

だからそれは、きっと、恐怖なんかじゃなくて、

「…好きだよ」

莉子は加瀬の頬に両手を添えて、自ら口付けた。
ちゅう、と軽いリップ音を立てて離すだけのつもりで、それが肯定の返事だと分かって欲しかった。

「…いやだったら、いつでも止めて」

いやなわけ、ないのに。
莉子が、小さくそう呟くと、加瀬は、そっか、と短く言った。

加瀬の唇が、首元に沿うように移動していく。
柔らかい髪の毛が、莉子の顎をくすぐっていく。
それに触れたくて、加瀬の存在をしっかりと感じていたくて、莉子の指先には、力がこもっていた。

加瀬は何度も莉子の手を握ってくれて、その度に指先が絡んだ。
ベッドに移動すると、加瀬の匂いがして、シーツも枕も、加瀬に包まれているようで、それがとても心地よかった。


加瀬は今、どんな気持ちかな。

ずっと友達だった加瀬が、こんなにも私を好きでいてくれているなんて、こんなにも優しく私に触れるなんて、思いもしなかった。


ベッドから見える、ダイニングテーブルの上に、加瀬が買っておいてくれたマグカップが二つ、並んでいた。

北欧の花柄が有名なブランドのそれは、莉子の家のキッチンの鍋つかみと同じ柄だった。赤と青の花柄が全面にプリントされた陶器のマグカップが、 中のコーヒーを少しだけ残したまま、佇んでいた。

それを見た時、加瀬が青の花柄を使うの、と莉子が笑って聞くと、俺が赤を使うのは変だろ、と加瀬が言った。そういう意味で聞いたんじゃないと思いつつも、莉子は加瀬に抱きついたのだった。




加瀬に、幸せかも、と言った。
また、かもかよ、と笑われたので、幸せと、言い直した。

それは俺のセリフだよ、と加瀬は笑った。
 

 
 
 

  
 
 
< 83 / 123 >

この作品をシェア

pagetop