ひとつの秩序
 
 
 
 
「…そろそろ帰んなきゃ」
「……泊まったら?」
「…そうしたいけど、メイク落としも下着の替えもないもん」

加瀬の寝室で、布団にくるまって話していると、あっという間に時間が過ぎた気がしていた。
寝室は電気がついていないが、リビングの電気はつけっぱなしで、そこから見える時計は、もう二十二時に差し掛かろうとしていた。

加瀬の提案は莉子も思いついていたことだったが、何の準備もしてきていないことから、莉子からは言わなかったことだ。
莉子が起き上がり、支度をしていると、加瀬が後ろから抱きしめてきた。

「…次は、泊まりの準備してきて」
「……うん、わかった」
「メイク落としとか、化粧水とか、普段使ってるやつ、後で教えて」
「え?」
「同じの買っとくから」
「高いよ?」
「いいよ、何なら普段よりも高いの使えよ」

適当に買ってくる、ではなく、普段使いのものを揃えてくれる、という提案がさらりとできるのは、妹が二人いるからだろうか。そう思っていると、加瀬は離れがたそうに、抱きしめる腕に力を込めた。

「普段よりも高いのでいいの」
「おー、そしたら俺んちに泊まりたくなるだろ」
「ふっ、それがなくても来るよ」

莉子が加瀬の方を振り返ると、回っていた腕が緩んだ。
唇を寄せようと少し背伸びをすると、それを察知したかのように加瀬が顎を落として受け入れた。

「…送るから」
「いつもありがと」
「いいんだよ。どうせそのつもりで、そっちの駅にチャリ置いてるし」

加瀬が再度キスを落として、莉子から離れた。
寝室にかけてあった上着を取って、リビングの方に移動していったその背中を目で追いながら、莉子も支度をした。








「夜はまだちょっと寒いね」
「なー、風邪ひくなよ?」
「ん?うん」
「さっき汗かいたし」
「ちょっと」

莉子が肘で加瀬を突くと、加瀬が嬉しそうに笑った。

まだ一緒にいたいという気持ちがあるからか、莉子の歩幅もいつもより狭い。
加瀬もそれに合わせてくれている気がする。
アスファルトに擦れていく、黒のショートブーツの音が静かな住宅街に微かに響く。

「泊まる時って、荷物多くなる?」
「んー?化粧品を置いておいてくれるなら、着替えくらい?」
「パジャマとか、いる?」
「加瀬の服を貸してくれるなら、大丈夫」
「あのモコモコのやつ着て欲しい」
「あれ好きなの?」
「うん、可愛い」

友達からのプレゼントで貰ったものだったけれど、加瀬の家に置いておくなら、新しいものを買ってもいいかもな、と莉子は思いながら、繋いでいる加瀬の手を握った。

「あのパジャマは暖かいのしかないから、今後買いに行こうかな、加瀬選んでよ」
「あ、そっか、あれは暑いか。俺が選んでいいの?」
「夏用に、ショートパンツのモコモコが売ってるよ」
「何それ、めっちゃいいな、俺が全身選ぶ」
「ヘンタイ」

莉子がそう言って笑ったが、加瀬は真面目に言ったようだった。
駅に寄って、加瀬の自転車を取りに行くと、二人の静かな足音に、いつもの自転車のカラカラという音が加わった。

薄いブルーのシャツワンピースの下から、夜風がふわりと入り込んでくる。

「メンズもあるよ、モコモコ好きなら加瀬もお揃いしようよ」
「えっ、買う」
「ていうか、ちょっと高いよ?あのブランド」
「いいよ別に、触り心地良かったし」

加瀬があのモコモコを全身に纏っている姿を想像すると、何だかアンバランスで笑えてくるものの、きっとそれも結局愛おしく思えるんだろう。繋がれた手の距離が、今日のデートよりも近い。それはきっと、関係が少し進んだからで、加瀬に近づくことに遠慮がなくなっている自分がいる。

「…もう着いちゃった」
「…な」

目の前にいつもの莉子のアパートが見えて、段々足取りが重くなる。

「…上がってく?」

名残惜しくて、莉子は言った。
そういえば、付き合う前、加瀬のことを友達だと思っている頃、何も考えずにこんな提案をしていたなと思い出した。あの頃の私は、何も加瀬の気持ちに気づいていなかったとはいえ、なんてとんでもない提案をしていたんだ、と思い返すと恥ずかしい気持ちになる。


「…いいの?」

眉をしかめながら鼻で笑って、上がんねーよ、と苦笑していた加瀬はもういない。
加瀬は、伺うように莉子を見下ろして、そう言った。


「…いいよ?」
「……今から、家に上がったら俺、多分、帰んねーけど」
「…いいよ」

莉子は、握っていた加瀬の手に力を込めた。
恥ずかしくて、顔は見られなかった。さっきまで、くっついていたのに。いつもなら、名残惜しくてもこんな提案はしなかったのに。

「じゃあ、お邪魔します」
「…うん」

加瀬がアパートの自転車置き場に、自転車を停めに行く様子を莉子は黙って見ていた。さっきまで、名残惜しい気持ちでいっぱいだったのに、まだ一緒にいられると思うと嬉しい気持ちで満たされる。私、加瀬のこと、思ってるよりもめちゃくちゃ好きかも。

「あっ」
「なに」
「あの…うち、何もないよ」
「何が?着替え?」
「着替えはまぁ、おっきいパーカーとかあるけど…」
「待ってそれ、元彼のじゃないよな?」
「違うよ!普通にオーバーサイズで私が着るの。そうじゃなくて、」

だって、加瀬が泊まるってことは、うちにはベッドが一個しかないから、一緒に寝るってことで、ってことは、そういうこともあるかもしれなくて、いや、でもさっきしたしもうしないか?そんなに元気じゃない?え?こんなこと考えてるの、私だけ?でも、もし、そういうことになったら、ないと困るよね?

莉子の頭の中はやけに饒舌だが、それをそのまま伝えるわけにはいかず、もじもじと言葉の片鱗だけを伝えていると、加瀬は察したのか、口元をニヤリと歪めて言った。
その表情はどことなく嬉しそうで、莉子はそれも恥ずかしい。

「あー、なるほどね。じゃあ、コンビニ行くわ。ついでに俺の下着も買ってくる」
「あの、うん、ごめんね」
「いいよ、むしろ置いてあるとか言われなくて良かった」
「は、早く行ってきて。部屋の中、片付けとくから」
「ん。夜だし、戻ってきたら電話する」

加瀬がそう言って、莉子に手を振った。
莉子は曖昧に手を振り返し、先に家の中に入る。



そして十分後、ビニール袋を下げて戻ってきた加瀬の顔を、莉子は何となく見られない。

「そういうこと、してもいいんだ?」
「うるさい」
「俺ですら何も考えてなかったのに、南はそこに思考が行ったんだ?」
「うるさいってば」
「さっきは、かわいかったなー」
「もう、早くお風呂入ってきたら」

こうなったら、使ってる化粧品の、一番高いラインのものを加瀬に買ってもらおう。ついでに美容液もプラスしてもらって、加瀬も使えばいいんだ。沸かしておいた風呂へ加瀬の背中を押して追いやり、莉子はそう心に誓った。



風呂上がりのすっぴんを見せるのは抵抗があったが、いつかは見せるし、加瀬ならいいかと思って、思い切って化粧を落とした顔を見せると、加瀬は真顔で、「高校の時と変わってなくない?」と言った。

そうだった、すっぴんは何年も前に、もう既に見られていたんだった、と莉子は気づいた。

寝室では、毎回、ベッドフレームにもたれかかるようにして、ラグの上に座っていた加瀬が、遠慮がちにベッドに入ってきた。
それが何だか面白くて、莉子が笑っていると、加瀬が不思議そうにしていた。

「今日はベッドの中に入るんだなって」
「…俺はいつまでベッドの脇に座ってればいいの?」
「いや、ううん、いいんだけど、面白かっただけ」

莉子が笑いながらそう言うと、加瀬はあまりいい思い出ではないのか、少しだけ眉を顰めていた。

今日何度目か分からないキスをしながら、莉子は、加瀬が買ってきた青い歯ブラシの置き場を作らないといけないな、と思った。



 
 
 
 
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