ひとつの秩序
夏目と初めて入った案件は、それなりにまとまり、片倉からも無事OKが出た。それを加瀬に話すと、「良かったじゃん」と加瀬は笑った。
「加瀬、お風呂沸かしとく?」
「ありがと。今日は泊まる?」
「服がなー。ファンデもないや。加瀬が私の家に泊まる?」
「あー、どうせ送るし、そっちの方が楽か」
「じゃあ、加瀬の家でお風呂入って、コンビニでアイス買って食べながら私の家行こうよ」
「最高じゃん」
平日の夜、お互い仕事が早く終わりそうだったので、加瀬の家でまったりしている時間だった。何となく、仕事の終わりそうな時間をお互い報告し合って、どちらも早そうな時は会うような習慣ができていた。
今日は加瀬が先に帰れそうだったので、夕飯を作って待っていてくれて、一緒に食べ終わったところだった。
「そういえば、仕事は最近どう?」
「あー、新人の子が、いい感じになってきた」
「いいじゃん、夏目くんだっけ?」
「そう、なんかすごいロジカル」
「南と逆じゃん」
何気なく加瀬が言った言葉に、莉子は項垂れる。
ソファに寝そべると、加瀬がキッチンの方からやってきたので、莉子が頭を上げると、加瀬がそこに座った。加瀬に膝枕をしてもらう形になり、莉子は加瀬の硬い膝の上で、つけっぱなしになっていたテレビを見つめた。
「そうなんだよなー、やっぱり私感覚でやっちゃう癖が抜けなくて」
「ダメなの?」
「うーん、やっぱ理論も大事よね」
骨張った腿の感触が後頭部に伝わる。女子のそれとは違う、無機質でがっしりとした筋肉の弾力。
莉子がわざと頭をごりごりと擦りつけると、加瀬のズボンの生地がカサリと音を立てた。
「その子は建築系出てんの?」
「ううん、情報工学とか?プログラミングとかやってたみたい。だから構造とか仕組みとか、そういうのに長けてる気がする」
「へえ」
加瀬が莉子の髪の毛をゆっくりと撫でている。
心地よくて、もっと撫でて欲しくて、莉子は軽く結んでいたゴムを解き、髪の毛を下ろした。加瀬が微かに笑った気配がして、パーマのかかった髪に指を沈めた。
「夏目くんは、どんな子なの」
「えー?一生懸命かな。モニター見る時とかすごい近いよ、肩が当たりそうだなって思うくらい見入って考えてる。あとなんか、おっちょこちょい?」
「へえ」
「私のペンをいつの間にか持っていってたり、スマホをよくどこかに置き忘れたりしてる」
「へえ…」
低い声と共に、頭皮をゆっくりと這う指先。髪の束が指に絡み、ほどけていく。
莉子はテレビの方に向けていた身体を、くるりと反転させて、仰向けになった。
加瀬の顔が、莉子を見下ろしていた。
お湯張りが完了しました、という音声が遠くから聞こえてきた。
「加瀬の膝枕、硬い」
「ふっ、悪かったな」
莉子がわざと、頭を膝に擦り寄せるようにして揺らすと、加瀬は笑った。
さあ、早くお風呂に入って、アイスを食べて、加瀬と一緒に寝よう。
「加瀬のパーカー、やっぱおっきいね」
「寒くない?」
「むしろ暑いよ、加瀬が厚着させるから」
家に着いて、莉子はアイスの入ったビニール袋をダイニングテーブルの上に置いた。
中からアイスを出して、一応冷凍庫に入れておく。
湯冷めしてはいけないから、と加瀬が必要以上に分厚い、裏起毛のパーカーを引っ張り出してきたせいで、首元まで詰まった厚手の生地が、莉子の鎖骨のあたりにずっしりと重くのしかかっている。
加瀬はいくつか莉子の家に服を置いておきたい、ついでに手ぶらで職場に行けるように予備のスーツも置いておいていい?とのことで、大荷物になっていた。
どこに置いたらいい?と聞く加瀬に、莉子はその荷物を受け取る。
帰り道にアイスを食べる話だったが、莉子の湯冷めを異様に心配する加瀬と押し問答があり、結局加瀬の主張通りに、莉子の家で食べることになった。
「なー、夏目くんってさ、彼女いんの」
「え?知らないけど」
加瀬の服を寝室のクローゼットに入れる莉子の後ろに、いつの間にか加瀬が立っていた。加瀬の急な問いに驚きつつも、莉子は荷物の整理のために手を動かし続けていた。
「……好かれてるとか、ないの?」
「え?私が?ないよ、全然」
「ふうん」
聞きたかったのはそこだったらしい。
加瀬の問いに、莉子は思わず後ろを振り返った。
当の加瀬は気まずいのか、莉子の方を見ない。
夏目とは、まだ初めて会って一ヶ月も経ってない。この間大学を卒業したばかりの新卒の子なのに、そんなことを気にしていたんだ、と莉子の口元は思わず緩む。
「…気にしてるの?」
「知らん」
莉子は手を止め、加瀬の方に近づき、もたれかかるようにして抱きつく。
知らないと言いつつも、加瀬は莉子の背中に手を回して、それを受け止める。
「まぁー確かにぃ、夏目くんちょっと近いなーって思う時もあるけどぉー」
「おい」
「すっごいニコニコしてくれて可愛いなって思う時もあるけどぉー」
「弄ぶな、俺を」
寝室のランプの光が、加瀬の顰めた眉の影を強めている。
言ったことを後悔しているような加瀬の顔をもっとよく見たくて、莉子は少しだけ調子に乗る。
「可愛い、加瀬好きだよ」
「…余裕だな」
加瀬の言葉に、え?と聞き返す暇もなかった。
気づいたら莉子の視界は反転していて、クローゼットの扉は開けっぱなしで、アイボリーのスリッパが右足にだけ引っかかったままで、視界がぐらりと揺れ、背中に柔らかいマットレスの弾力が押し寄せた。
ベッドに押し倒されたのだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「え、いや、あの、ごめん」
「もう遅い」
「あ、待って、ごめん、ちょっと遊びすぎた、んんっ」
一瞬で、でも流れていく景色はゆっくりで、まるで柔道の技でもかけられたみたいだ、なんて思いながら莉子は事態に気づいて謝罪の言葉を口にするも、加瀬は口角を上げながら莉子にキスを落とす。
「あっ、ちょっと、待って」
「今日は待たない」
加瀬の手が着ていたパーカーを捲り上げ、ひんやりとした指先がお腹に触れて、その冷たさに思わず声が出る。私に厚着させておいて、加瀬はちょっと冷えてるじゃん。そんなことを思うも、口に出す余裕などない。
加瀬が何度も唇を合わせ、莉子もそれに応えていく。
柔らかい黒髪の奥に光る、寝室の煌々とした電気が気になり、莉子は唇を強引に離して加瀬に言った。
「っはぁ、待って、せめて、でんき」
「まだ何もしてねーよ?なに想像したの」
「いじわるじゃんっ」
「後輩を使って俺を妬かせる方が意地悪じゃねーの」
楽しそうに笑う加瀬の瞳が、白々としたLEDの光を反射して、莉子の乱れた呼吸も、少しだけ熱くなった耳たぶも、逃さず捉えている。
莉子は眩しさに目を細めたが、加瀬はその視界を塞ぐように覆い被さっている。
この間は、すごい優しかったのに。そう言ったら、また追い詰められてしまうだろうか。
「ア、アイス食べてないよっ」
「んー」
「ねえ加瀬っ、」
「会社で、そいつや先輩に、可愛い顔見せんなよ」
「何それ?そんな、んうっ」
加瀬に強制的に唇を塞がれ、莉子の言葉は途切れて消えていく。
もう抵抗するより、そのまま加瀬に全てを預けてしまった方が楽になる気がして、莉子は加瀬の首に手を回した。
ああ、開いたままのクローゼットに並ぶ、自分とは違うサイズの加瀬のスーツを、ちゃんとしまわないと。
加瀬の唇の角度がだんだん深くなり、溢れていく息が熱くなっていく。
この間みたいに、莉子のことを気遣って、優しくて、献身的だった。けれどこの間より、少しだけ強引で、名前を呼ばれる回数が多かったことには、莉子は気づかなかった。