ひとつの秩序
次の日、加瀬は早起きをして、くしゃくしゃに溜まったままのワイシャツを着て、一旦自宅へ帰って行った。
見送った際に、昨日のことを覚えているか聞くと、覚えていない、と言い張っていたが、あの顔を見ると、きっと全部覚えているに違いなかった。
「ねー、聞いて加瀬」
「ん?」
そして数日後、金曜日。今日は加瀬が泊まりに来ている。
今日は莉子の方が早く仕事が終わったので、莉子の家で過ごしていた。
莉子がレシピを見ながら何とか作り上げたハンバーグは、中央を凹ませなかったせいで、焼き上がりが球体のように膨らんでいたり、みじん切りにしたはずの玉ねぎが粗かったりしていたが、加瀬は気にせず、嬉しそうに二つも平らげていた。
夕食はサラダやスープなどで適当に済ますことが多かった莉子にとって、平日に帰ってきてから料理をするなど、あまり考えられなかったが、加瀬が美味しそうに食べてくれると思うと、苦ではなかった。
今は加瀬に風呂上がりの髪の毛を、ドライヤーで乾かしてもらっている最中だ。
ソファにドライヤーを持ってきて、加瀬はソファに、莉子はラグの上に座っている。
「私ね、次の案件でリーダーになった」
「え!やったじゃん!」
「そう、なんだかんだ初めて任されたの」
「どんなことすんの?」
ドライヤーのゴォーッという風越しに、加瀬の声が少しくぐもって聞こえる。
莉子はチラリとテレビ台の上を見た。
そこには加瀬が以前くれた、キャンドルが置かれている。
ずっしりとした重みがある、シンプルなアイボリーのキャンドル。
中央にはブランド名が彫られていて、ジャスミンと、シトラス、少しウッディーな香りは、まだ近くを通るとたまに香る。
「加瀬がくれた、あのキャンドルのポップアップの第二弾なの」
「あー、あれか。第二弾ってことは人気だったんだ?」
「そうなの、それでご指名いただいちゃって」
「すげーじゃん!おめでとう」
「えへ、ありがとう」
熱を帯びた風が耳元を掠め、加瀬の指先が頭皮を優しく刺激するたびに、思考がぼんやりと溶けていく。
昨日告げられた新しい案件は、以前取り組んだポップアップの第二弾で、好評だったことと、新作がいくつか出たことで第二弾が決定となった。
社内で莉子の提案したポップアップ限定のデザインが好評だったらしく、是非ともまた南さんに頼みたい、と依頼が来た。
片倉にそれを告げられた時は、思わず飛び上がって喜んでしまい、苦笑された。
会議には片倉も同席するようだが、莉子がメインで、その下に夏目がつく形で、任されることになっていた。
「また進捗教えてよ。一人でやんの?」
「うん、一応先輩も会議にはいてくれるみたいなんだけど、ほとんど私が進めるんだ」
「下は?」
「夏目くんが下に入るから、今度は私が指示も出してまとめていかないと」
「キャリア的に、そろそろマネジメント入ってくるよなー、頑張れよ」
片倉と夏目の話題を出すのはどうなのだろう、とも思ったが、事実なので仕方がない。チラリと加瀬の顔を見るも、何も気にしていないようだった。
莉子はもう五年目だが、中途が多い会社なので、キャリアとしては下から二番目だ。
だいぶ丁寧に育てられてきた方だが、今後はこういうことも増えていくのだろう。
「よし、終わった」
「ありがとー」
加瀬がそう言って、ドライヤーの電源を落とした。
終わった瞬間、突如として訪れる静寂。
さっきまで風に舞っていた髪が、自重でしっとりと肩に落ちる重みを感じる。
水分が完全に飛んだ自分の髪を触ると、ふわりと綺麗なカールが出ている。
莉子のパーマはデジタルパーマなので、乾かすとよりカールが強調される。
「加瀬、パーマ出すの上手になったねぇ」
「コツを掴んだ」
「私より上手かも」
「こないだ一緒に見た、美容部員の人の動画が分かりやすかったじゃん」
「そうだけど、自分ではこうやってできないんだよなー」
加瀬がドライヤーを洗面所に返しに行っている間に、莉子はどんな動画だったかなぁ、とスマホを操作する。
「後頭部の乾かし方のコツってとこがあったじゃん」
「んー?あったっけ?」
加瀬が戻ってきて再びソファに座ると、莉子を抱きしめるように後ろから腕を回す。
一緒にその動画を見ていると、画面上部のメッセージアプリの通知が五つほど連続で届いた。
「…見たら?」
「あー、うーん、大丈夫」
加瀬の気を遣ったかのような言葉に、莉子は歯切れが悪く返事をする。
タイミングが最悪だ。
きっとこのメッセージの送信者は、加瀬が家に来る前に、少しだけ返事をしていた、昨日最終打ち合わせが終了したばかりの、取引先の、同い年と言っていた男性だ。
「なにその返事?」
「いや、大丈夫」
「…ぜってー男じゃん」
「待って、本当に何もないよ?昨日、連絡先交換したばっかりだし」
加瀬が不快になると思っての返事だったが、やはり誤魔化し方が良くなかったらしい。
普段通りの口ぶりではあるものの、このまま変な方向に勘違いされるよりかは、と莉子は動画を停止して、その人とのメッセージ画面を加瀬に見せた。
「ほら、打ち上げしませんかって話で、お店の候補送ってきてるだけだよ」
「へえ、いいよ画面まで見せなくても」
「違うって、信用して欲しくて!何にもないから!」
「疑ってないって」
「絶対男じゃんって、加瀬が言うからじゃん!」
主張が上手く届いていない気がして、莉子が思わず声を上げる。
メッセージを見られてもいいくらい、問題ないと思っているから見せているのに。
男じゃん、と嫉妬を表すくせに、見せなくていいとか、疑ってないとか、じゃあどうしろって言うんだ。
加瀬が黙り、莉子も同じようにして黙った。
さっきまで加瀬の手のひらで温められていた髪の毛が、夜の空気に触れて、いつの間にかひんやりと冷えている。
湿り気を失ったはずのカールが、首筋にまとわりつく感触だけが、妙に重たく感じられた。
「ごめんね」
「いや、うん」
「加瀬、こっち向いてよ」
加瀬は莉子から視線を外して、カーテンの方を見つめている。
莉子はソソファに座る加瀬を振り返りながら話していたが、その隣に移動する。
「…今、顔見せたくない」
「なに、なんでそんなこと言うの。ごめんねって」
「…だから、大丈夫だって」
「いつもごめんねって言ったら、すぐ許してくれるじゃん!」
「それは…南に非がないからだろ……」
加瀬の言葉に、莉子は思わず、加瀬の膝の上に乗って、頬に手を当てた。
ぐい、と無理やり自分の方を向かせると、加瀬の顔は明らかにむくれていた。
莉子の化粧水とクリームを使った加瀬の頬は、しっとりと水分を含んでいた。
「どういうこと?今回のは私に非があるの?」
「……あるよ…」
ヤケクソのように、何かを諦めたかのように加瀬が言った。
正面を向かせているのに、目線は莉子を捉えてはいない。
抵抗はしていないが、本意ではないことが伝わってくる。
「なに?何がいけなかったの」
「………今は、俺の彼女だろ」
「…そうだよ?」
加瀬が、自分の頬に当てられた莉子の手を優しく外して、そのまま莉子を抱きしめた。加瀬の膝の上に座っているので、いつもより加瀬の顔の位置が低い。
莉子の鎖骨あたりに顔を押し付けるようにして、加瀬はぼそりと言った。
「…他の男に、好かれないようにして」
パジャマの薄い生地越しに、加瀬の鼻筋が肌を圧迫する感覚。
震えるような加瀬の吐息が、莉子の皮膚に直接こもって溶けていった。
回された腕が背中できつく絡んでいて、加瀬の髪の毛が莉子の頬と顎をくすぐるように当たっていた。
「え?この人別に、私のことを好きとかじゃないけど」
「俺なら、気になってない女の人にわざわざ個人メッセージしない」
「飲み会の幹事だからじゃない?」
「そうだとしてもサクッと終わらせるし、相手の人の好みとか長々と聞かない」
画面を見せなくていいと言っていた加瀬だったが、メッセージの内容はしっかり見ていたらしい。
と言っても取引先ではあるんだから、適当にあしらうのは出来ないんだけどな。莉子はそう思いながら、加瀬の身体に手を回して、同じように抱きしめた。
「…私は加瀬が好きだよ?」
「……南のことを疑ってるとかじゃない」
「好きだよ」
「…俺も好きだよ…」
莉子は回していた腕を緩めて、身体を起こした。
鎖骨あたりに押し付けられていた加瀬の顔も離れ、申し訳なさそうな表情が伝わってくる。莉子が加瀬の頬に手を当ててキスをすると、加瀬も同じように返してくる。
少し深くなるまでそれが繰り返され、顔を離して莉子は言う。
「…なんか、あの、感触が」
「俺のかわいい彼女が積極的だからだろ」
座っている位置から感じる、加瀬の固い足の筋肉に混ざった違和感を伝えると、開き直ったように加瀬が答えた。
ここに乗ったのもキスをしたのも自分ではあるが、そういうつもりは無かったんだと言っても、きっともう遅いのだろう。
加瀬の熱っぽい視線が、莉子を射抜く。
それに当てられて、じわりと込み上げてくる莉子も、加瀬と変わらないのかもしれない。
「加瀬だけが好きだよ」
莉子がそう言うと、加瀬の背中に回っていた手が、服の中にするりと移動した。
まるで返事のようだと思い、莉子は再び加瀬にキスを落とした。