ひとつの秩序
 
 
 
  
数日後、モニターに並ぶスケジュール表を、莉子は凝視する。

タスクが多いわけではなく、むしろ整理すれば単純なはずだった。
クライアントとの打ち合わせ、空間ラフの修正、見積もりの調整、什器のサイズ確認など、やるべきことは分かっている。以前担当したものなだけに、担当者や先方のイメージも掴めているはず。

ただ、それぞれのタスクの横に、もう一つ考えることが増えている。
これは、夏目に任せるべきか、どうか。

マウスのカーソルが、タスクの上で止まったまま動かない。

目の前の席では、夏目が同じようにモニターを凝視していた。
きっと、先ほど送ったブランド資料を読み込んでいるのだろう。

任せすぎれば、崩れるし、任せなければ、育たない。
上に立つって、こんなにも難しいことだったのだと、長い間面倒を見てくれていた片倉をより尊敬してしまう。

莉子は席を立ち、夏目のところに向かった。
その動きに気づいて、夏目が莉子の顔を見た。莉子は夏目のモニターに表示されていた資料を指差して、夏目に言った。

「この香りの体験ゾーン、什器の配置考えてみてくれる?」
「え、僕がですか?」
「うん、でも人が溜まる場所になるから、導線は崩さない感じで」

夏目は一瞬だけ考え、すぐ頷いた。

「あとアクリル台の高さも、キャンドルが浮いて見える位置を探したいんだよね」
「それも僕でいいんですか?」
「うん…」

返事をしながら、任せすぎなのかもしれないとも思ったが、視界の端に、安心できる名前が表示されていた。

片倉:会議同席のみ
そう書かれている文字を見て、莉子の心が少しだけ落ち着く。

「…迷ったら、一回見せて」
「承知しました」

夏目は椅子を戻し、すぐ作業に取りかかった。それを見て莉子は自分の席に戻り、再びモニターを見つめた。

クライアント窓口、コンセプト設計、空間ディレクション、予算、進行。全部自分であることは、思っていたより重い。

「いいと思うよ」

ため息をついた莉子に、隣で黙って作業していた片倉が、莉子に言った。
小さな、つぶやくような声だった。莉子が思わず片倉の方を見ると、片倉が莉子に静かに微笑んでいた。
自分に言われた言葉だと分かり、莉子は張り詰めていた気持ちが少しだけ緩む。

「そんなに悩まなくても大丈夫」
「せんぱい…」
「俺も悩んだなー、南と俺はタイプが違うからさー」
「先輩も?」

片倉は椅子に背中を預けて、遠くを見つめるような表情をした。ぎしり、という音が、ざわりとしたオフィスに溶けていった。

「俺は建築寄りだけど、南は違ったからさ、デザイン系を先に任せたでしょ」
「はい」
「いきなり難しいかなーとか、まずは定石かなーとか」
「そうなんですか…」
「うん、でも今は何でもできるようになったでしょ」
「何でも…かなぁ」
「だから、南が思うようにやって大丈夫」

俺に相談してだめ、ってことは全くないからね。と片倉が言った。
そうか、全部一人でやらなきゃいけないと思っていたけれど、片倉にアドバイスを求めることは、してもいいのか。莉子のモヤモヤとしていた心の中が、ゆっくりと溶けていくみたいだった。

「せんぱいい…ちょっと一個聞いてもいいですか」
「早速?全然いいよ」

片倉は笑いながら、莉子の方に椅子を動かした。
その動きに、懐かしさを感じながら、莉子は悩んでいた箇所を口にする。
ああ、この人に、全然追いつける気がしない。











数日後に開催された打ち上げは、少し前に最終打ち合わせが終了した案件だった。

先方がやけにうちを気に入ってくれたようだが、こんなにしっかりとした飲み会になったのは、幹事の男が南を気に入っているからではないかな、と片倉は邪推をしながら参加した。

当の莉子はそれに気づいているのかいないのか、その男性から離れた席に座っていて、視線もあんまり合わせていないように見える。
隣の夏目と話している様子を、片倉は横目で見つめながら、目の前の他社の男にそつない返事を返す。

「彼氏さんとはどこで出会ったんですか?」
「高校の同級生だよー」
「え、めっちゃいい!!」

そんな会話が隣から聞こえてきて、意図的か、そうでないか、片倉は口元を緩ませた。これがあの男に聞こえていれば、立派な牽制だけど、どうだかな。

莉子は楽しそうに夏目とキャッキャと恋愛話に花を咲かせているようだが、その距離はやはり近い。意外と慣れるもので、夏目にもその気がないことが分かるのであまり気にしないようになっていたが、俯瞰的に見つめると、その近さは明白だ。

いい気分かと言われるとそうでもないが、兄弟のようにも見えてくる。
そういう人間だ、と思えば、そうなんだ、と脳内では処理されるのか、特に嫉妬とかいう感情は浮かばない。

静に言われた、それは過去の自分が享受していたもの、という言葉が脳内に浮かぶ。
それはその通りだ、そうやって、俺は南を利用して、その立場に甘んじていたんだから。その結果が、隣の恋バナに繋がるとは思わなかったけれど。

片倉は目の前のグラスを傾けて、アルコールを喉に流し込んだ。
視界に映る南は、目の前の取引先の男に酒を勧められて、遠慮しながらも、グラスを煽っていた。
オシャレな名前のカクテルだったけれど、結構度が強いものではなかったかな、あれは。

その後も片倉はちらりと莉子と夏目に視線を送りつつも、目の前の男性の話に付き合うのだった。






そして案の定、かなり酔いが回った様子の莉子の介抱を引き受けた片倉は、駅近くの広場にあったベンチにて、肩にもたれかかる莉子を見つめていた。

夏目は気にしていた様子だったが、残しても何かできるわけではないので帰した。

先輩としての距離を守る、と宣言した以上、必要以上に近づくのは本意ではないが、酔って眠っている好きな女を放置する選択肢はなかった。

片倉は、右肩にもたれかかって寝息を立てている莉子を見つめた。
首を動かすだけで、ふわりとした髪の毛が自分の頬に触れて、いけないことをしているような気持ちになって、正面を見つめた。

駅のすぐ近くの広場なだけあって、他にもベンチに座っている人もいれば、バスを待っている人もいる。駅に向かう人も多く、この場所を選んだだけ、下心がないと思って欲しい。


莉子が寝落ちする前に連絡させた人物を待つこの時間が、少しでも長く続けばいいと思っていたところ、背後から少しだけ荒い息が聞こえて、片倉は首を動かした。


「…っ、あ、…ありがとうございました」
「ああ、こんばんは」

加瀬がスーツ姿のままやってきて、片倉と莉子が座っているベンチの前に立った。
整えられていたであろうネクタイは少し歪み、乱れた呼吸が、冷たい夜の空気の中で白く濁って消えていく。

「ごめんね、急に迎えに来させて」
「…いえ、助かりました」

固い表情の加瀬を見て、片倉はいつか見かけた記憶と重ね合わせる。
いつかの昼、テラスで莉子と食事をしていたのを見かけた。
俺が欲しかったその座を、勝ち取った、《《元》》友達。

「最近、リーダーを任された案件で気張ってたみたいよ、可愛い飲みやすいカクテルって、度が強いよね」
「…そうですか。ご迷惑をおかけしました」

目の前の加瀬は、片倉にチラリと視線を送るも、すぐに莉子に視線を戻す。
それがどうにも癪に触るが、そこで何かを言うほど子どもではない。

「南、起きて。帰るぞ」
「んー」

肩に乗っていた莉子の頭の重みがずらされ、寝ぼけた様子の莉子が少しだけ目を開けた。莉子の頭が乗っていた右肩だけが、急に夜風に晒されて、しびれるように冷えていく。

莉子の髪が触れていた頬のあたりには、まだ彼女の甘い香りが、かすかな痺れのようにこびりついていた。目の前で遠慮なく莉子の身体に触れる加瀬の様子が、関係を明確に示唆されているようで、片倉の心は冷えていく。

「手伝おうか?」
「大丈夫です、タクシーで帰ってウチに泊まらせます」
「そう」

右側にあった温もりが完全に離れていって、まだ眠そうな莉子が、ぼんやりと瞬きをしていた。


「家が近いって、いいよね」
「え?」


そういうつもりはなかったけれど、君が、わざとらしく牽制してくるから。


「生活圏に入り込んで、距離縮めて、羨ましいよ」
「…」
「昔から、そうしてきたのかな?」


言葉を吐き出した瞬間、背中に当たるベンチのささくれだった木の感触が、薄いコート越しに突き刺さっていることを意識する。
ひんやりとした硬い座面がやけに硬く感じて、目の前の加瀬と莉子の奥から、大通りの車のライトが次々に流れてくる。それが眩しくて鬱陶しい。


「…はっ、そっちこそ」


加瀬が、口の端を歪ませて言った。
莉子の肩を抱く手にぐっと力が入り、指先が莉子のコートの生地を深く沈ませる。
自分のものだと見せつけるかのように近いその距離に、片倉は冷たい目線を送る。
ベンチの背後にある植え込みが、風で揺られて音を立てる。


「理由なく毎日会えて、憧れで、刷り込み入ってて、俺がどれだけ大変だったか」
「…」
「早いとこ、次の彼女、作ってくださいね」


加瀬はそう言うと、背後を振り返った。バス停の奥にあるタクシー乗り場には、数台のタクシーが待機していた。

「じゃ、ありがとうございました」

そう言って、加瀬は莉子を抱きしめるようにしてタクシー乗り場に向かっていった。
片方の肩には、莉子のカバンがかけられ、背中にはビジネスリュックが背負われている。仕事終わり、急いで来たのだろうか。

自分が思ったよりも子どもだったことにため息をつき、片倉は立ち上がる。
タクシー乗り場とは反対方向の駅に足を進めた。


意外と、嫉妬深くて、執念深そうで、状況が違ったら仲良くなれたかもしれないな。高校の友達って言うんだから、そりゃそうか。
いつから好きだったのか知らないが、上手くやったもんだ。


片倉は自嘲気味に口を歪ませながら、雑踏の中に足を進めた。

アスファルトを叩く、乾いた自分の靴音すら、今は鬱陶しかった。
 
 
 
 
 
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