ひとつの秩序
「…あれ?」
次の日、莉子が目覚めると、そこは加瀬のベッドの上だった。
辺りを見回すと、いつもの見慣れた景色だ。
ベッドの上に加瀬の姿はなく、肩までかけられた布団が起き上がった拍子にパサリと落ちた。
寝室の扉は閉められていて、室内は静かだ。
頭の奥に少しだけ痛みを感じ、そういえば昨日は飲み会で、カクテルを飲み過ぎてしまったんだったと思い出す。
「…起きた?体調は?」
「おはよう…?体調はいいです…?」
莉子がベッドの上で伸びをしていると、寝室の扉がガラリと開いて、加瀬が入ってきた。手には水のペットボトルを持っている。
「疲れてた?」
「うん…?今何時…?」
「まだ九時だけど。よく寝てたからさ」
加瀬は莉子に、ペットボトルを渡し、ベッドに腰掛けた。
その体重で、マットレスが少し沈む。
莉子は渡された水を飲むと、冷たい液体が身体に流れ込んでいくのを感じる。
「あれ、私昨日お風呂入ったっけ…?」
「入ってない」
「あれ?飲み会があって、そのあと遅くなると危ないから、加瀬が駅まで迎えにきてくれるって…?」
「うん、メッセージでやりとりしてた」
「それで、なんで加瀬の家にいるんだっけ…?」
「なんも覚えてない?」
加瀬は少しだけ眉を下げて、息を吐いた後、莉子の頭を撫でた。
先日買ったお揃いのパジャマではなく、加瀬が部屋着でよく使っているTシャツを着ていることに気づく。
「なんか、迎えにきてくれたよね?あれ?加瀬が来てくれて、良かったー、嬉しいーって思って…?」
「南、酔って寝てたよ」
「え?」
「ほら」
加瀬が自分のスマホを操作して、莉子に見せた。
【酔っちゃったから、中目黒の駅に迎えにきて、広場のベンチ】とだけ莉子が送っていて、そのあとの【中目黒?】【大丈夫か?】という加瀬のメッセージには、いまだに既読はついていなかった。
「あれ?これそういえば先輩に、送れって言われて打ったやつ…?」
「そう、それで俺が駅に行ったら、先輩のそばで南は寝てた、すやすや」
「え!?」
「だから俺が、タクシーでここまで連れてきた」
「え!?」
「暑いって言って、ベッドに置いてあった俺のTシャツに勝手に着替えて、加瀬の匂いだーって言って、そのまま寝たよ」
「ええ!?」
加瀬がベッドに腰掛けて、リビングの方を見ながら淡々と話す。
そう言われると、ぼんやりと記憶の端に残っている気もする。
顔に手を当てると、落としていない化粧の残りがざらりと指にまとわりついた。
皮脂と混ざったファンデーションの重みが、皮膚を塞いでいるようで、莉子は眉を落とした。
「ごめん!加瀬、ほんとごめん、迷惑かけて」
「…俺はいいけどさぁ」
「タクシー代もいくらだった!?仕事帰りって言ってたよね、わざわざ駅まで来させて本当にごめん!」
「…そんなんは全然いいけど」
莉子が両手を合わせて謝ると、加瀬は体勢を変えて莉子の方を向いた。
そろりと視線を合わせると、真顔の加瀬が莉子を見ていた。
「ちょっと、正座して」
「は、はい」
「ちゃんと聞けよ」
「はい」
加瀬の言葉に、思わず敬語で返事をする。
莉子は言われるがままに、慌てて体勢を変えて正座をして、加瀬に向き直る。
加瀬は、莉子が手に持っていたペットボトルを取ると、ベッド脇に優しく置いた。
コト、という硬い音が静かな寝室に響き、それが説教の開始を告げる合図のように聞こえた。
「まずな、俺がいなかったらどうなってた?」
「…はい」
「こないだすげー連絡来てた男の会社との飲み会だろ?先輩も後輩もいて、ほとんど男なんだろ?」
「はい…」
「酔って寝て、そのまま朝って、どうなってんの?大学生じゃねーんだから」
「すみません…」
加瀬の声色はいつも通りだが、言われることは正論でごもっともだ。
莉子はつい下唇を噛む。自分から漏れていく返事は、情けなくて小さい声だ。
「今回は先輩がついてくれてたから良かったけど、そのままお持ち帰りとか、あり得るからな?」
「はい…」
「ていうかその先輩も、ただの先輩じゃねーんだから。そもそも一回告ってきたやつの前で、寝るまで酔うな」
「ごめんなさい…」
「もっと警戒心を持て。寝るくらい疲れてたんなら、酒の量くらい調節しろ。仕事の飲み会なら、余計弱い酒を頼め」
「はいぃ…」
返す言葉もなく、莉子は正座をしている自分の太ももに手を当てたまま返事をする。
加瀬の顔はとうてい見られなく、目線は加瀬のTシャツの柄を行ったり来たりしてしまう。一昨日の夜、遅くまで夏目との案件について頭の中でぐるぐる考えていたら眠れなくなってしまって、それが原因だろう。
「…異論は?」
「ありません……」
加瀬はため息を吐いて、再度莉子の頭を撫でた。
優しい手つきと温かさを感じ、莉子はより身を縮こめた。
「説教終わり。足崩していいよ」
「あの、本当にごめんね、加瀬にも迷惑かけて」
「俺に迷惑かけたとかは、いいよ」
「でも…」
「むしろ、俺を呼んだことだけは良かった」
加瀬は、正座をしたままだった莉子の腕を優しく引っ張り、自分の方に寄せた。
莉子はその流れのまま加瀬の身体にもたれかかるようにして、加瀬の身体に手を回すと、加瀬も同じように莉子を抱きしめた。
「あの、…嫌いになってない?」
「そんなんでなるかよ。俺はいいんだよ、むしろそこで頼ってほしいから」
「怒ってない…?」
「飲み会での軽率さには怒ってたけど、俺は全然迷惑とかじゃないし、いいんだよ彼氏なんだから」
「うぅ…ごめんね、本当に、二度としない」
「うん、もうするな。俺の心臓が持たないから」
加瀬が莉子を抱きしめたまま、ゆっくりとベッドに倒れるように横になった。
その腕を枕にするように頭を乗せると、加瀬が布団をもそもそと上まで引っ張り上げて、二人で布団の中にくるまった。
厚手の羽毛布団が、二人の体温を閉じ込めて、逃げ場のない熱がシーツの中に充満していく。
かさりと布団が擦れる音がして、先ほどまでの温かさが戻ってくる。
「…なんでそんな飲んだの?強い酒だった?」
「なんか、フルーツが入った甘いやつだったから、美味しそうだなーと思って…」
「次からそれは外で飲むなよ」
「はい…あと、加瀬と会えるってなったから、なんか、いいかなってなっちゃって…」
「…何が?」
「酔っても、加瀬なら許してくれるかなーって、なんか、加瀬がいるなら安心だーってなっちゃって…」
加瀬は抱きしめていた腕の力を強めた。
莉子は加瀬の首元に顔が押し付けられる。
いつものシャンプーの匂いと、加瀬の布団の匂いに包まれていく。
「…その気持ちは、嬉しいけど。外で無防備な姿を見せんな」
「うん、ごめんなさい」
加瀬が少しだけ身体を離し、莉子の顎を掬った。
上から落ちてくるようなキスを一つして、莉子はその大きな温かい身体に抱きついた。
身体を動かすたびに、加瀬の使い込まれたTシャツの、少しくたびれた綿の柔らかさを肌で直接感じる。
莉子の体には大きすぎるその袖が、腕を動かすたびに余って、カサカサとシーツを撫でる。そのゆとりさえも、加瀬に守られている証拠のように思えて、莉子は加瀬の背中に回した手に、ぎゅっと力を込めた。