ひとつの秩序
「加瀬、ちょっとお風呂に先に入らせてっ」
「やだ」
「だって顔ぐしゃぐしゃなんだもんっ」
「別にいいって」
「やだっ、一刻も早くこのドロドロファンデを落としたいのっ」
腹部に回された腕を無理やりほどき、莉子は加瀬の腕の中から脱出した。
振り返ると、加瀬は背後から不満そうな顔で莉子を見つめていたが、ぺたりと皮脂がまとわりついた肌が不快で、莉子はもう何度も使っている風呂場へと逃げ込んだ。
「さっぱりした?」
「うん」
「髪乾かすから、おいで」
「ありがとー!」
風呂から上がると、加瀬がソファの上で、ドライヤーを持ちながら待機していた。
さっきまで説教をしていたとは思えない甘やかしぶりに、莉子は思わず笑みがこぼれる。
いつものように、加瀬の膝と膝の間に入るようにして座ると、加瀬がドライヤーのスイッチを入れた。
「今日、お出かけする?」
「南が疲れてないなら、どっか行くか」
「行きたいカフェがある!」
「甘いもんある?」
「なんと、加瀬の好きなプリンが看板メニューです」
「最高」
莉子の髪の毛を、優しい手つきで加瀬が乾かしていく。
下から巻き上げられるように、くるりとカールを出す指先が、たまに首筋に当たってこそばゆい。温風に煽られて、湿った髪が耳たぶをペチペチと叩く音が、風の音に混ざっている。
莉子が目を瞑って、その心地よさに浸っていると、加瀬が前髪を乾かす際に、莉子の顔を覗き、少しだけ笑った気配がした。
「眠い?」
「ううん、なんか快適で」
「たくさん寝たからな」
「すみませんでした」
加瀬がドライヤーのスイッチを切り、それをローテーブルにカタリと置いた。
莉子は振り返り、加瀬の隣に座る。
「あ、でも化粧道具は持ってきてないかも」
「じゃあ南の家に今日の夜泊まって、カフェは明日にする?」
「そうだねー、そういえば本屋さん行きたいんだった、近場で出ようよ」
「いいよ」
いっそのこと加瀬の家に化粧道具を置いておく?いや、でも二つも同じもの買うのも違うし、毎回金曜日に持ってくるとか?それか、基本私の家に泊まる感じにするとか?んーでも、加瀬の家も落ち着くし好きなんだよなぁ。
莉子の脳内で独り言を垂れ流している間に、加瀬はテーブルに置いてあったドライヤーのコードをくるくると丸めていた。その様子をなんとなく見つめる。
「てか、なんで俺のTシャツ着たままなの?」
「え?だめ?」
「だめじゃないけど、それ俺が一昨日パジャマにしたやつだし」
「着心地いいんだよー」
「俺の匂いがするんだっけ?」
「え」
「昨日、自分でそう言って着て、嗅いでた」
加瀬がニヤリと笑って、莉子を見た。
肩が触れる距離の近さに意地悪く見つめられ、莉子は思わず視線を外す。
そういえば、朝起きた時にそんなことを言われたような。
「覚えてないもん」
「俺の匂いが好きなの?落ち着くの?」
「じゃあ脱ぐっ」
加瀬の顔がどんどん近づいてきて、莉子は思わず立ち上がって寝室の方に足を進めた。お揃いで買ったパジャマが、ベッドの脇のタンスに入っていることは知っている。
それに着替えようとタンスに手をかけると、加瀬が背後から莉子の手を取った。
「可愛いから、着てて」
「ぎゃっ」
そのままベッドに転がされ、加瀬が莉子の顔の横に手をついて、覆い被さる。
「なんでズボン履いてないの」
「だって、Tシャツ大きくてお尻隠れるし、下の服を洗面所に持っていくの忘れちゃっ、っふ、」
「無防備だなー」
「んっ、加瀬の前ではいいんでしょっ」
会話の途中でキスをされ、急なそれに目を瞑りながら応える。
唇が離れると加瀬がニヤリと笑いながら莉子を見つめた。
「服、捲れてパンツ見えてるけど?」
「そっれは、加瀬が今いきなり、ベッドに、んっ」
「んー?」
「み、見ないでよっ」
加瀬がチラリと視線を下半身に送ろうとしたので、莉子は加瀬の目元を咄嗟に手で押さえて対抗する。加瀬と莉子が動くたびに、ぎしり、とマットレスが歪む音がする。
「あー、今更むかついてきた、あの先輩」
「先輩!?あっ、昨日会った、か、そりゃそうか…」
「なに、なんかまずいことでもあんの」
「違うよっ、だって絶対気まずい二人じゃん!」
加瀬の言葉に、莉子は思わず目を見開く。
突然出てきた先輩というワードに、再び先ほどの説教が頭に浮かぶ。
私を取り合ったなどというセリフは口にしたくはないが、状況だけを考えても、二人を対面させるのは絶対に良くはないだろう。改めて昨日の自分の醜態を深く反省する。
加瀬は莉子に覆い被さったまま、何かを思い起こすかのように斜め上に視線をやっていた。さらりとした髪が、重力に従って莉子の方に垂れている。
「俺は別に気まずくはねーけど」
「な、なんか言われたりしなかった?」
「…なんも」
「絶対なんか言われたでしょ!さっきむかついたって言ってたじゃん!ほんとごめん!」
「なんで南が謝んの」
「だって…加瀬、嫌な気持ちにならなかった?」
加瀬が莉子の隣にごろん、と寝転がった。
腕を差し出され、その上に頭を乗せる。
「一回会ってみたかったし、いいよ」
「な…なんで?」
「そりゃね、南が前に好きだった男だから」
「…それは過去の話じゃん。今は加瀬が好きだよ」
加瀬の方に身体を寄せると、加瀬が反対の腕を回して莉子を抱きしめる。
身体が近づき、いつもの柔軟剤がふわりと香った。
「…もっかい言って」
「ふふ、なに?いくらでも言うよ、加瀬が好き、大好き」
加瀬が少しだけ身体を離して、莉子を見つめた。
温かい布団の中で、加瀬に抱きしめられて、自分と加瀬からは、同じ柔軟剤とシャンプーの香りがして、それがとても居心地が良かった。
「…莉子」
「えっ」
加瀬が、莉子の目をまっすぐ見て、ゆっくりと、少しだけこもった声で、呟いた。
耳のすぐそばで、空気が震えている。
加瀬の熱い息が、鼓膜を直接撫で上げているようだ。
「名前で、呼んでいい?」
「っいい、けど」
なんでこんなに、恥ずかしいんだろう。
加瀬が呼ぶ、自分の苗字が、定着しすぎていたからだろうか。
「莉子、俺も好き」
「っちょっと待って…」
消え入るような声が、自分から発された。
顔を隠したくて加瀬の首元に顔を寄せたのに、それを覗き込むようにして首を曲げた加瀬が、莉子の顔を見て笑った。
「顔、赤っ」
「だって、急で、なんか恥ずかしくて…」
「かわいい、莉子」
わざとらしく名前を繰り返す加瀬は、この状況を楽しんでいるみたいだった。
加瀬の素足が、布団の中で莉子の足を、すり、と撫でた。
温かくて少しだけ乾燥した肌の感触が、足先なのにやけに鮮明に感じた。
「透真、くん」
「な、」
「おかえし」
加瀬 透真。
高校の時、初めて名簿でその名前を見た時から、綺麗な名前だなと思っていた。
高校生の時の加瀬は、まだ幼くて、少年っていう感じで、部活に一生懸命打ち込んでいた姿が印象的だった。まさか、十年後にこんな関係になるなんて、思いもしなかった。
「な、んで、君付け?」
「…恥ずかしいから、段階踏む」
「……」
恥ずかしくて加瀬の顔が見られなかった。
名前を呼ぶことも、意識している自分すらも恥ずかしかった。
加瀬の首元に顔を埋めていると、そこにある喉仏が、言葉を飲み込むように上下するのを、指先が敏感に捉える。
莉子がそちらに視線を送る前に、加瀬が莉子の頭から腕を抜いて、ガバッと勢いよく覆い被さるように体勢を変えた。
まつ毛の先が触れそうなほどの至近距離だった。
自分でも見たことがないほど潤んだ自分の瞳が、加瀬のそれに映っていた。
「えっ、待って加瀬」
「…加瀬、じゃないだろ?」
加瀬の目の奥が、艶やかに熱を持っている。
少し楽しそうな様子で、口角を上げながら、莉子の耳元に唇を這わせる。
「待っ、お出かけ、するんでしょ、準備しなきゃっ」
「いいよ、午後からにしよ」
加瀬の唇がするりと下の方にずれていく。
太ももの間には加瀬の膝が置かれていて、半開きになっているこの状態では、きっと布団の中で下着が露わになっている。
Tシャツ一枚しか着ていないことを今更後悔するが、もう遅い。
「午後って、待って、まだ十一時前っ、あっ」
「もっかい名前呼んで」
加瀬の左手が、Tシャツを捲り上げるようにして莉子の素肌を滑っていく。
「待っ、あっ」
「名前、呼んで」
朝、起きた時に加瀬がベッドにいなかったのは、ゆっくり寝かせてくれようとしていたのだろうか。
莉子の、出かけようとの提案に、疲れていなければ、と返した加瀬は、どこまでも自分のことより莉子を優先したがる。
昨日のことに関しての、怒りの理由が、世間体やマナーではなく、自分が心配でたまらないから、というパーソナルな部分に帰結する。きっと、昨日はとても心配させた。
心臓が持たない、の一言で片付けられないほどの思いを、きっと昨日抱いただろうに。
「とう、ま、っ」
「あー…、呼び捨てもいいな」
きっとこの名前をするりと呼べるようになるには、時間がかかるだろう。
「…好きだよ、莉子」
身体を捩る莉子を、加瀬は優しい目つきで見下ろしている。
そんなに何回も好きだと言われなくたって、いつものその目つきから、溢れるほどの感情は伝わっている。
どちらのものか分からない唾液を拭った加瀬の指が、莉子の身体を丁寧に這っていく。
私もだよ、と言おうとして、吐息となって漏れた。
眩しいくらいの太陽光が、開けっぱなしのカーテンから差し込んでいた。
シーツの白さが目に痛いほどの光を受けて、莉子は思わず目を閉じた。