ひとつの秩序
 
 
 
 
 
 
「加瀬のばか」
「ちょっとごめん」
「なに、ちょっとって」

少し先の駅にある、コーヒーショップと本屋が一体型になっている店で、莉子はソファ席に腰掛けて加瀬に文句を言っていた。
加瀬の目の前には、人気の生ドーナツのショップの箱が置かれている。
都内に数店舗出している人気店なだけあって、箱のパッケージもシンプルで洒落ている。

莉子が席を探して注文している間に、加瀬が莉子の機嫌を取るために買ってくると自ら言ったものだ。そこそこ並んだらしいが、自分で買ってくると言ったんだから良いだろう。

「だからドーナツ買ってきたじゃん」
「ドーナツなかったら許さなかった」
「それは流石に俺が可哀想だろ」

昼過ぎには軽くどこかでランチして、本屋に寄って、莉子の家に行くつもりだったのに、いつの間にかもう十四時になっていた。昨日の心配と、片倉への恨みが連なってか、なかなかベッドの上で離してもらえなかった莉子は、ほとんどしていない化粧を隠すかのように、キャップを深く被り直した。

「ピスタチオのやつあった?」
「あった、最後の一個だった」
「じゃあ許す」

莉子が箱の隙間から覗くと、艶やかなピスタチオのグレイズが光を反射して、少しだけひび割れている。
甘い誘惑に負けた莉子がコーヒーを啜りながらそう言うと、加瀬が少しだけ笑った。

本気で怒っているわけじゃないと加瀬も分かっているからこそ、莉子をわざとらしく甘やかしてくれているのだろう。それも莉子を感じているので、思いきり我儘を言えている。

「てか、俺の家に化粧のやつ、いくつか置いてったら?」
「うーん、そうしようかなぁ」
「小分けにできねーの?あのでかい瓶のやつ」
「ファンデね、できるかも。百均で容器買おうかな」
「全部高いやつ?」
「ううん、ドラッグストアのやつもあるから、それは新品を買って置いておこうかな」

加瀬が、莉子が買っておいたホットコーヒーを啜りながら頷いた。
もうすでに服もいくつか置いてあって、ヘアアイロンやパジャマなど、それなりに生活できるものも置いてあるというのに、加瀬はまだまだ莉子の私物を増やしてもいいと言う。

ここまできたら、いっそのこと同棲でもした方が話が早そうだけれど、と莉子は思うが、さすがにその言葉を発する勇気はない。濃い日々だったからあまり認識していなかったが、まだ付き合って一ヶ月と少しだ。

「そうだ、加瀬って、美術館とか興味ある?」
「行きたいとこあんの?」
「うん、色々その時で展示も変わるし、定期的に色んなところに行くのが好きなんだけど」
「俺が行って邪魔じゃないなら、一緒に行きたい」
「いいの?」

美術館などは好き嫌いが人によって好みが分かれるし、たっぷり時間を使ってじっくり見たい莉子としては、興味のない加瀬を連れていくのは憚られる、と思っての問いだったが、加瀬の前のめりな返事に少しだけ戸惑う。

「うん、知らない世界だから気になる」
「私、結構じっくり見るよ?」
「いいよ、余裕があったらたまに解説してくれたら嬉しい」
「それは全然いいけど…」

加瀬は視線を外して、本屋の中で行き交う人々を眺めている。
深めのローソファにもたれて、足を組んで遠くを見ている加瀬が、なんだか格好良く見えてしまうのは、恋は盲目というやつなのだろうか。

今まで当たり前に近くにいて、加瀬の変化も見てきた。高校生の時には短かった髪の毛が伸びて、身長も伸びて、大学で筋トレにハマったと言ってガタイも良くなった加瀬は、もしかしたら世間一般に見たら、格好いいのかもしれない。

莉子のことを可愛い、という加瀬だが、莉子も同じようにそういう言葉を口にしたほうがいいのだろうか。名前を呼ぶのも恥ずかしいのに、今更外見についてどうこう言うのも、同じように恥ずかしい。

「いつ行くの?直近であんの?」
「あ、えと…再来週とか、どう?」
「いいよ、行こっか」

そういえば、付き合った時にいちご狩りでも行こうと言っていたのに行けていないことをふと思い出す。もういちごの季節も終わりだろう。
でも、きっと来年も一緒にいる気がするし、来年でもいいかもしれない。そんな未来を当たり前のように描けてしまうのは、なぜだろう。

「なんの展示か、聞かなくていいの?」
「…あー」

加瀬はコーヒーをローテーブルの上に置いて、口元を手で覆った。
ショップの端の方にある席は、すぐ隣にはガラスの壁になっていて、二階にある店舗からも、地上の、駅に向かって歩く人たちの波がよく見えた。

「…露骨すぎた?」
「どういうこと?」
「…莉子と会えれば、なんでもいいから」
「…」
「だから、展示の内容とか、行く場所とか、なんでもいいんだよ」

莉子、という単語が加瀬の口から飛び出す度に、午前中の柔らかいベッドでの光と行為を思い出して、加瀬のセリフもあいまって、莉子は思わず視線を逸らす。

「…すっごい私のこと好きじゃん…」
「…そうだよ。知らなかった?」
「……知ってるよ…」

ここが、ただのカフェでなくて本当に良かった。
静かな空間だったら、こんな言葉が自分から発されることはなかっただろう。
加瀬の席の奥に、本を選ぶ人々がゆっくりとした動きで行き交っている。
旅行本、と書かれた本棚の表示に、意味もなく視線を送る。
そうだ、加瀬と旅行に行ってもいいかもしれない、なんて逃げるような思考が脳内に広がる。

「だから、気にすんな」
「…でも、」
「俺の行きたいところなんて元々特にないし、あったら言うよ」
「…ほんとにいいの?」

加瀬は先ほどと変わらず、口元を手で覆って、視線を逸らしている。
たまに莉子をちらりと見る視線だけが、刺さるように莉子を射抜く。


「…俺は、莉子がいれば、なんでもいいんだ」


そうして加瀬はついに両手で顔を覆った。
恥ずかしいことを言った自覚はあるらしい。
加瀬の手の間から覗く、耳がほんのり赤い気がするのは、きっと気のせいではない。

ていうか、そんなセリフ、こちらが顔を覆いたいくらいなんですけど。

本屋とカフェのざわめきの中に、駅近くなだけあって、人通りも多い。
二階の店舗からも見える、地上の横断歩道の点滅の青が、コンクリートを反射してたまに本屋に流れ込んでくる。
ピッポー、という陽気で機械的な音が、分厚いガラスを透過して、こもった振動のようにソファ席まで届いていた。

「…なんか言えよ」
「……恥ずかしい」
「俺の方が恥ずかしいわ」

加瀬は顔を覆っていた手を退けて、ローテーブルに置いてあったコーヒーを飲んだ。
きっともう冷めているだろう。
有名チェーン店のロゴマークが、莉子を見て微笑んでいるようだった。

外はあんなに急ぎ足の人々で溢れているのに、このローソファの周りだけは、時間がぬるく停滞しているようだ。

「私もだよ、…透真、くん」
「っブファ」

咽せたように口元でコーヒーを吹き出す加瀬に、莉子は笑ってテーブルに一緒に持ってきていた紙ナプキンを渡した。
加瀬は濡れた口元を手の甲で拭いながら、莉子をじろりと見た。
顎からぽたりと黒い液体が一滴、加瀬の膝に落ちた。

「…ごめん」
「…コーヒー飲んでるところを狙って言った?」
「違うよっ」

加瀬が恨めしそうに莉子に言った。
きっと加瀬だって、莉子、と呼ぶのに違和感を感じているはずで、透真、と呼ばれることは気恥ずかしいに違いない。それでも、名前を呼び合う関係を当たり前にしたいと思って、頑張ってくれているんだろう。

恥ずかしいとか言ってないで、意識して、呼んでいこう。

手始めに、帰りの電車で、手を繋ぎながらもう一度呼んでみようか。

その後もコーヒーを飲むたびに莉子の方を見て様子を伺う加瀬に莉子は笑い、加瀬の恥ずかしそうで、でも嬉しそうな顔も、笑い声も、駅の喧騒に溶けていった。



 
 
 
 
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