ひとつの秩序
 
 
 
 
 
「え?デート中に夏目に会ったの?しかもあんたが行くって言ってた日に?」
「はい…ヤバいですか?」

いやヤバくはないけど、と静がランチプレートについてきたスープを啜りながら言う。
数日後の昼休み、静から誘われて、莉子は会社近くのイタリアンカフェで昼食を取っていた。

「夏目は多分意図はないだろうね」
「そんな感じがします、でもそれが直接見れて安心したんじゃないかなって気もするんですけど…」
「いや、それはないでしょ」
「え?あの感じ、見たら好意がないことくらい分かりません?」
「分かるけど」

でもねー、と静は言った。
ちょうどそのタイミングで、店員がやってきて、静と莉子の目の前にパスタが置かれた。日替わりの四種類の中から選べたパスタに、サラダとスープがついて、なかなかお得なランチだった。

「でも南、その加瀬の好意も、片倉の好意も気づかなかったじゃん」
「そ、れは……」
「でしょ?」

静の予想もしなかった言葉に、莉子の身体は固まる。

静が店員に会釈をすると、店員がお水のお代わりをお持ちします、と言った。
ランチ時の忙しい時間に、なかなか気が付く店員だった。

「彼氏の好意にずっと気づかなくて、長年友達やってきて、きっと無防備な姿も見せてきたんでしょ」
「…」
「でも口説かれて、友達って思ってたけど好きになったわけじゃん」
「…はい……」
「ずっと好きだった片倉を凌ぐくらいに」
「…」

どうして加瀬は不安がるんだろう。
こんなに好きだと伝えて、言葉でも行動でも表しているつもりなのに。
伝わっていないのだろうか。
それとも、気持ちを疑われているのだろうか。

莉子の中で、ぼんやりと、言語化もされていなかったような心の中にあった不安が、静の言葉によって、違う視点で見えてくる。

「だから、無条件で心配するなっていうのは無理じゃん」
「…確かに…」
「夏目が南を恋愛的に見てないのは分かるし、南の中で気持ちは揺らがないんだろうけどさ」
「はい…」

静は、青い陶器の皿に盛り付けられたパスタをくるくるとフォークに巻き付けながら言った。
ホタテとアスパラガスのパスタが、踊るように皿の上で回転していくところを、なんとなく見つめた。

「それを、長年隣で友達のポジションで我慢してきた彼氏に理解しろっていうのは、ちょっと可哀想な気がするー」
「そう、ですね…」

莉子の目の前に置かれた海老とほうれん草のトマトクリームパスタは、皿に置かれたままの形で湯気を放っていた。
右手に持ったままのフォークが、指先の微かな震えを拾ってカチリと皿の縁に当たる。

「ま、上手くいかなかったら片倉に甘えちゃえば?」
「え!?」
「こないだも飲み会で潰れたんだってねー」
「あれは!…誰から聞いたんですか!」
「夏目」

その時の加瀬の説教や自分の反省、週明けに片倉と夏目に謝り倒したことを思い出して、莉子はフォークをぶすりとパスタに刺した。

「片倉が介抱するよって引き受けたんだって?で、彼氏に迎えに来させたんでしょ。なんかあった?片倉と彼氏は対面した?」
「会ったみたいですけど…詳しく教えてもらえなくて」
「絶対なんかあったじゃんー、どっちかが何か言ったんだー修羅場っ!」
「やめてくださいよ、もう先輩も全然普通ですし…」
「ね、何事もなかったかのようだよね」

静のフォークの先が、迷いなく皿の底を削るような硬い音を立て、楽しそうな表情を浮かべながらパスタを頬張っている。

仕事もできて頼りになる先輩ではあるが、人の不幸をこうも楽しそうに喜ぶ姿だけは尊敬できない、と心の中で悪態をつきながら、莉子もパスタを口に入れる。

「その時は彼氏はなんて?」
「普通にお説教でした、正論だらけの。もう絶対飲み会ではビール一杯しか飲みません」
「心配してた?怒ってた?片倉にむかついてた?嫉妬された?」
「…多分全部ですけど…」
「ひゃー、絶対片倉がなんか言ったんじゃん、楽しすぎる」
「楽しまないでくださいっ」

店内は混み合っていて、莉子と静が多少大きな声で話していても何も問題はなかった。周りは女性客ばかりで、確かにパスタもランチセットも女性客をターゲットにしたものだ。

「なんであんなに片倉が好きだったのに、いつの間にその友達のことが好きになったの?」
「…なんでだろう」

静の疑問に、莉子はすぐに返せなかった。
確かに、自覚するのが遅くはあったが、二年ほど好きだった。その間に他の男性に口説かれても、一ミリも気持ちは揺らがなかった。それがどうして、加瀬に惹かれたのだろう。

「なんでなんで?ほら、言語化してみなよ」
「…多分……加瀬がいなくなっちゃうかもしれないと思ったから…」
「ほう」

片倉からの気持ちは、刺激的だった。
じわりと外堀を埋められていくような感覚と、眩しくて、隣にいたら自慢できるような人で、完璧で、断る理由も、片倉がダメな理由もなかった。

「多分、タイミングが違ってたら、先輩と、普通に付き合ってたと思います…」
「なるほど?」

憧れの先輩が好きと言ってくれて、きっと、夢見心地だった。
そんな人が自分を求めてくれるのは、後輩として、女として、誇らしいはずだった。
全てが莉子の理想の上を行っていて、そこにストレスなんて一つもなかった。

きっと、片倉と付き合っていたら、夏目や他の男性のことで揉めることもなかっただろう。
莉子が気づかないように、障害は除いてくれて、毎日平和で幸せな日々だったと思う。

「だから、先輩がダメだった理由は一つもなくて…」
「残酷ね」

静が優しく笑いながら言った。

「加瀬は、私を優先してくれようとするんですけど、私は全然、加瀬のしたいようにしてくれていいのにって思うんですよね…」
「ふうん?」

加瀬は、莉子の意思の全てを尊重してくれる。
莉子がいいなら、莉子が疲れていないなら。加瀬の言葉には、いつも自分の意思を確認する枕詞が入る。

「夏目くんのことも、思ってることがあるなら言ってくれたらいいのに」
「うん」
「なんか、私の気持ちを信じてもらえてないみたいな感じがして…」
「じゃあ南もそれ言えば?」

言ってくれたらいいのにと思うくせに、自分の思うことは言えない。
静にそう言われて、莉子は言葉に詰まる。

「…なんで言えないんだろう」
「好きだからじゃん?」
「そうなんですよね…好きなんだけど…なんでって聞かれると…」

上手く言語化ができない。
片倉と付き合わなかった理由は、すらすらと頭の中に思い浮かぶのに、なぜだろう。
加瀬の顔も嫌いじゃないが、好みだから付き合ったわけではない。


「なんでだろう…」

周りは女性客ばかりで、笑い声やカトラリーが触れ合う音が、高く明るい天井に反響している。
答えのない呟きだけが、その賑やかな空間から浮き上がっている気がした。


優しいところも、料理が上手いところも、居心地がいいところも好きだし、好きなところはいくつも思い浮かぶのに、なんで片倉ではなく加瀬を選んだのかという問いに対して思い浮かぶのは、

「加瀬がいなくなりそうだったから…って感じなんですよね」
「へぇ」

あの日、友達に戻る?と聞いた加瀬の顔を見ていたら、それがとても嫌だと感じて、加瀬に離れていって欲しくないと思った。
多分好きだと勢いで伝えて、加瀬との時間を積み重ねて、もうその気持ちは到底多分じゃ抑えきれないというのに。

「じゃ、言語化の続きは、今度飲みに行った時ね」
「私飲まないってさっき言ったじゃないですかっ」
「いいじゃん、男がいないんだから」
「そう、ですけど」
「別に潰すまで飲ませないわよ」

そう言って、静は最後のパスタをくるくると巻いて食べた。
入り口にふと目線を送ると、数人の列ができているのが見えて、莉子も皿の上のエビにフォークを刺した。


 
 
 
 
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