ひとつの秩序
第六章
「莉子、これ要る?」
平日の仕事終わり、加瀬の家に来ていた。
加瀬の家で夕飯を食べて、莉子の家に移動して泊まることになった。
最近はその流れが定番になりつつあり、加瀬の作ってくれるご飯の方が好きな莉子は、ありがたかった。
「え?」
加瀬が紙袋ごと渡してきたのは、有名なブランドのものだった。
中を覗くと、ブランド名が入ったコットンの袋があり、その中には茶色いガラスのボトルに入ったハンドソープが入っていた。
薬瓶みたいな見た目の、シンプルな白いラベルに黒いポンプ。
そこそこお値段が張るので、ギフトに定番なものだ。
「どうしたの、これ」
「なんか貰ったんだけど、俺ハンドソープは泡で出てくるやつが好きだからさ」
「貰ったの?」
「うん、会社の人に。おしゃれな感じだし、莉子好きかなって」
「好きだけど…」
品よく、大人っぽいアロマが香るそれは、莉子も数回使ったことがあった。
女性同士でのプレゼントではよく贈られるものだが、加瀬がこれを貰ったというのは違和感があった。
油と調味料の匂いが立ち込めるキッチンには不釣り合いなほど、そのボトルは洗練された静かな存在感を放っている気がした。
「いらない?」
「加瀬がいらないなら、もらう…」
「うん、俺はいいからあげる」
「ありがとう…」
加瀬は既にキッチンに戻り、フライパンを振っていた。
その中にはパラパラの卵と米が舞っている。
今日はチャーハンを作ってくれるらしい。隣のフライパンには、冷凍餃子が蓋をして蒸されている。
莉子はそれを自分のカバンの隣に置いて、ダイニングから加瀬に問いかける。
「誰に貰ったの?」
「え?だから会社の人。なんだっけ、なんかお礼らしい」
「お礼?」
「総務の人なんだけど、たまたま昼休みから戻るときに裏口使ったら、宅配で届いてた荷物がすっげー重くて困ってて、それを総務部まで運んだだけ。あとは一回、その人にHDMI変換を貸したことがある」
加瀬はフライパンの蓋を取って、シンクに置いた。
餃子は水分を飛ばす段階に入ったらしい。
莉子は加瀬の背後から、顔を覗かせて言った。
「女の子でしょ?」
「うん。え?」
「それで、お礼がイソップのハンドソープ?」
「え、もしかして妬いてる?」
加瀬が勢いよく、フライパンから莉子に視線を移して言った。
その表情は少し驚きつつ、口元は少しだけ緩んでいる。
「加瀬、その子に狙われてるよ」
「んなわけないじゃん。なぁ、妬いてる?」
「これ、いくらするか知ってる?重い荷物のお礼で渡すものじゃないもん」
「高いの?俺そういうの疎くて分からん。ねー、妬いてる?」
加瀬はすっかり料理の手を止めて、莉子の方に向き直っている。
餃子が綺麗に並べられているフライパンからは、水分が羽根になっていく途中の音が聞こえてくる。
「普通に高いよ、主にギフト需要だもん。加瀬、覚えてないだけで他にも接点あるでしょ」
「え?ねーよ、総務だよ?部署ちげーし、毎日顔合わせないし」
「ふーん」
「なぁ、妬いてる?莉子ちゃん」
加瀬はついに餃子とチャーハンが入ったフライパンの火を止めて、莉子の背中に手を回した。その顔は明らかに口元が緩んでいて、嬉しそうだ。
加瀬がなんでもないかのように答えてくるたびに、莉子は眉間に皺が寄っていく。
「妬いてないよっ」
「えーほんと?ちょっとあっち行こ」
加瀬がそう言って、莉子の手を引いてソファに連れていく。
食欲をそそる匂いを背後に、莉子は手を引かれるままについていき、加瀬の膝の上に座らせられる。
「…ご飯、食べようよ」
「かわいい、莉子、たまらん」
「妬いてないからね」
「んーなんでもいい、かわいい」
加瀬が莉子の鎖骨あたりに顔を擦り付ける。
莉子はなんとなく顔を逸らし、加瀬の肩に手を置く。
部屋の中に中華の匂いが充満しているが、もう加瀬はそんなことはどうでも良さそうだ。つけっぱなしにしていたテレビのバラエティは、いつの間にかコーナーが変わっていた。
「…と、透真だって、私に好かれるなとか言うくせに好かれてるじゃん」
「透真くん、ってもう呼んでくんないの」
「いいの、透真って呼ぶことにするのっ、そうじゃなくて、ちゃんと答えてよ」
加瀬は莉子に埋めていた顔を上げて、莉子の背中に手を回した。
柔らかく抱き寄せられ、加瀬の身体に体重を軽く預ける。
「全然接点ないし、好かれてねーって」
「だから、イソップなんてただのお礼で渡すものじゃないんだって」
「そうだとしても、俺は莉子が好きだし」
加瀬の口調は柔らかく、いつもより上機嫌に耳に届く。
心なしか目尻も少し下がっている。
「私だって、他の人に口説かれたって、と、透真が好きだよって言ったじゃん」
「あー…それは、そうか」
加瀬は莉子の背中に置いてあった手を頬にするりと移動させた。
さっきまでフライパンを握っていた加瀬の指は、少しだけかさりと乾燥していた。
その無骨な指先が、莉子の肌の上をゆっくりと滑り、熱を置いていく。
「でしょ?そんなの、防ぎようないじゃん」
「俺は別にそんなモテねーけど…莉子は違うだろ」
「何が違うの」
加瀬は少し考え込むようにした後、莉子の頬を指の腹でゆっくりと撫でた。
遅れて感じる体温が、指先から加瀬の気持ちを伝えてくるようだ。
「莉子はさぁ…男からしたら、そりゃ好きになるだろって感じなんだよな」
「何それ?」
「なんか距離近いし、愛想いいし、素直だろ?そりゃ惹かれるだろ」
「そんなことないよ、フィルターかかってるでしょ」
「昔から知ってる俺の言葉に間違いはない」
「なにその自信」
加瀬の言葉に、莉子は思わず笑みをこぼす。
あまりにも補正がかかっているとは思うが、そう思っているからこそ、莉子が好かれることに対しても加瀬は心配しているのだろう。
加瀬は自分は誰に好かれたとしても、莉子が好きだから関係ないと言う。
莉子も同じように思っているのに、そこは信頼してもらえていないのかと、少しだけ寂しい気持ちにもなる。
なぜ片倉ではなく加瀬を選んだのか。先日の静の問いが、頭の中で思い出される。
片倉に恋していた時は、理由がはっきりしていた。
かっこいい、尊敬できる、理想的。だから言語化もできたのだろう。
でも加瀬に対しては、理由を探そうとすればするほど、「いなくなるのが嫌だったから」という、自分のエゴみたいな動機に突き当たってしまう気がする。
ちらりと、静と話をした時に、頭に過った、疑念。
好き、よりも先に、いなくなって欲しくないと、感じたあの日。
私は、加瀬に依存しているだけなんじゃないか?
でも、好きだという感情も、今は間違いなくある。
そこが上手く、自分の中に落とし込めていない。
「…と、透真が、ちゃんと好きなのに」
「……名前を呼ぶのに、いつまでも何回も緊張する莉子が、俺も好きだけど」
「真面目に言ったのに!」
「俺だって真面目だよ」
加瀬は私をなぜ好きになったのか、いつから好きだと思ってくれたのか。
そう聞いても、きっと教えてくれないだろう。
もどかしさを上手く言葉にできずに、莉子は自分から口付けた。
ちゅ、というリップ音が、夜のテレビに紛れていった。
鼻腔をくすぐるのは、香ばしいごま油の匂いと、加瀬の部屋着から香る、柔軟剤。
ああ、そろそろご飯を食べなければ。
せっかく透真が作ってくれたのに。
そう思いながら、少しずつ深くなっていく唇と、背中に回された加瀬の腕に、身体を委ねた。