ひとつの秩序
「駅弁は絶対にいらないでしょ」
「いるって」
「新幹線で四十分なんだから、絶対にいらないって」
「旅行と言ったら駅弁だろ」
「見てよこの鯵の唐揚げ、加瀬好きでしょ、これ食べようよ」
「……分かった」
新横浜の駅で、階段を登りながら莉子は加瀬に言った。
加瀬は莉子が見せたSNSの写真で一気に心変わりしたようで、眉に皺を寄せながら承諾した。
事の発端は、加瀬の家で、一緒にテレビを見ていた時だった。
たまたまバラエティ番組で熱海が特集されていて、いいなぁ、と呟いた莉子の言葉を加瀬が拾って、温泉旅行に行こうという話になった。
それから宿を探すと直前割というのでお得なプランが掲載されており、その場の勢いもあって、急遽、週末に予約を取ったのだった。
「さっき、また加瀬って言ってた」
「え!無意識!」
「俺は全然いいけど」
ギリギリになってもいいように、と買っておいた指定席に乗り込むと、通路側に座った加瀬が、笑いながら莉子に言った。
先日、このままだといつまでも名前で呼ぶのに慣れなさそうだから、加瀬って呼んだら指摘してくれと莉子が頼んだのだった。だいぶスムーズに違和感なく呼べるようになってきたのだが、咄嗟の時には今までの癖が出てしまうらしい。
「透真」
「なに?」
「練習してるの。透真、透真、透真」
「英単語の暗記かよ。別に無理しなくてもいいけど」
「ていうか、なんで透真はすぐ莉子って呼べてるの?」
新幹線ではちょうど席に陽が差し込んでいて、顔に直接日差しが当たらないところまでバイザーを下げて、莉子は加瀬に言った。
莉子の小さいサイズのキャリーケースの上に、加瀬の大きいトートバッグが乗っている。それを加瀬が足で挟んでいるため、加瀬の足が莉子の足に当たっている。
「さぁ、高校で川原たちが、莉子って呼んでたからじゃね?馴染んでるっていうか」
「あー、確かに、七菜香たちみんな女子は名前呼びだったもんね。男子はみんな名字だったし」
確かに、と莉子は返事をしながら、高校の時の加瀬を思い出す。
友達がとにかく多かった印象で、バレー部を頑張っていた。そういえば、七菜香たちにも加瀬と付き合ったことを言っていなかったとぼんやりと思う。
「みんなに、言う?付き合ってること」
「ああ、言ったら?」
「透真は言わないの?」
「わざわざ男同士で報告しないだろ。グループのトークで言ったら?」
「そうしようかなぁ」
美郷と吉川の結婚式以来、動いていないメッセージアプリのグループだが、結婚でもないのに改まってお知らせというほどでもない気がする。あの時もそういえば、加瀬と新幹線に揺られていた。十二月下旬だったあの時から、もう半年ほどが経っていた。
「…美郷の結婚式の時も、私のこと好きだった?」
「……そうだよ」
莉子は、右隣に座る加瀬を見上げた。
高速で走行する車体の微細で不規則な振動が、触れ合う加瀬の腕から莉子の身体へと伝播してくる。
加瀬は一瞬だけ莉子に視線を移して、すぐに外した。
「…先輩に、彼女ができたって報告した時も?」
「……そうだけど」
「…先輩のこと好きになったって、言った時は?」
「……好きだったよ」
「…そうなんだ」
だとしたら、すごく長い間、辛い思いをさせていたんじゃない?
莉子はそう思って、加瀬の肩に、自分の頭を乗せた。
今まで、加瀬と居心地よく過ごせていたのは、もしかしたらものすごく、加瀬が気を遣って、合わせてくれてたからじゃないんだろうか。
加瀬が、莉子の都合をすごく気にするのは、その時の癖が抜けていないんだろうか。
「…俺が、しつこかっただけだから、いいんだよ」
加瀬は、莉子の気持ちを、なんとなく汲み取ったようだった。
触れていた腕を少し動かして、膝の上に置いてあった莉子の手を、加瀬はするりと握った。
頭を預けたままの加瀬の服からは、莉子がかつて選んだあの香りがした。
体温で温められた布地から、微かに立ち上がる清潔な石鹸の匂い。
付き合ってすぐの頃、二人で寄ったドラッグストアを思い出す。柔軟剤がなくなったからと加瀬が言ったからだった。
どの香りが好き?と莉子に聞いた加瀬に、莉子は何気なく、いくつかサンプルの匂いを嗅いで、この香りが好きだと一つの柔軟剤を指差した。
別に、なんてことのないメーカーの柔軟剤で、莉子は加瀬のイメージに近くて、好みだった香りのものを何気なく伝えただけだったのに。加瀬はその柔軟剤を、今も使い続けている。
世の中のブランドやセンスを無視して、女性から貰った高いハンドソープよりも、泡が好きだからと機能性を優先して切り捨てる加瀬が、莉子が好みと言った一言だけで、莉子を優先している。それはまるで、神託のように。
「…今は透真がちゃんと好きだし、…ちょっとのことで嫌いになったりしないからね」
「…うん」
新幹線がトンネルに入って、窓の外が急激に暗闇に塗りつぶされた。
ゴオオと唸りをあげていて、その音に紛れて口に出した。
それまで莉子の視界を白く飛ばしていた日差しが消え、窓ガラスには、頭を乗せた莉子の方に、少しだけ頭を傾けている加瀬が映し出されている。
加瀬にだけ聞こえればいいと思った。加瀬は短く返事をした。
「…夜ご飯、懐石だって」
「楽しみ。温泉も楽しみ。貸切露天もあるって」
「えっ、一緒に入るの!?」
「え、入るだろ」
「なに当然みたいに言ってんの!?」
「当然だと思ってた」
トンネルを抜けて、直後の眩しすぎる太陽の光が、網膜をチカチカと刺してくる。
加瀬が言葉の調子を変えずにそう言うので、莉子は動揺して加瀬の顔を見る。
楽しそうに、くしゃりと笑う様子をなんだか可愛く感じてしまい、抵抗する気もなくなって、再び背もたれに背をつける。
「…そんな準備はしてきてないのに」
「準備いる?」
「心の」
「到着するまでにしておいて」
加瀬はそう言って、繋いだままの莉子の手を握った。
莉子は足元のスニーカーを見つめ、返事はしないで外の景色を見つめることに集中した。