ひとつの秩序
 
 
 
 
 
改札を出た瞬間、海の匂いがした。
まとまったエリアにある商店街で食べ歩きをして、意外と多い坂に苦戦して、早めのチェックインをして、まったりと過ごした。

部屋の扉を開けると、畳と木の匂いがふわりと広がって、奥にある大きな窓いっぱいに、海が広がっていた。窓を少し開けると、潮の匂いを含んだ風が入ってきた。

部屋は和洋室になっていて、低いシングルベッドが二台、並べられて部屋の中央に置かれていて、夕食の伊勢海老をはじめとする懐石を二人ではしゃぎながら食べて、そうして予約していた貸切露天に向かおうという時間だった。

「…心の準備はまだですかー?」
「うるさいよ、ヘンタイっ」
「時間決められてるんだから、早く行こ」

備え付けの風呂用カゴバッグにタオルを詰めた加瀬が、浴衣の羽織に袖を通しながら莉子に言った。
貸切露天は洗い場がないので、そのまま大浴場に行く話になっていて、莉子はスキンケアのポーチをバッグに入れていたところだった。

「分かったよ」

莉子は立ち上がり、部屋の入り口で待つ加瀬の元に行った。
基本的には莉子を気遣い、嫌なことはしないというスタンスのくせに、風呂に一緒に入ることは強制のように振る舞ったり、風邪を引いた時も強引に家に上がって看病をしようとしたりと、そういうところがある。

部屋数がそこまで多くないこの宿では、すぐに貸切風呂の場所に着き、指定された扉を開けて、加瀬は鍵をかけた。

「俺、先に入ってるから、ゆっくり着替えてちょっと後から来たら?」
「…うん」

莉子が心から嫌がっていないと分かっているからこそだろう。
だから、今もこうして、最終的に強引に押し進めるようなことはしないのだ。

浴衣を脱いだ莉子が、カラリと軽い音を立てて扉を開けると、加瀬は背中を向けていた。そこまで大きくないテラススペースに、木で作られた四角い浴槽と、椅子が一脚だけ置いてあった。

「…お邪魔します」
「大丈夫、思ったより暗いから、あんまり見えねーよ」

加瀬は莉子の方を見なかった。
少しだけ右にずれて、莉子の入るスペースを空けた。

「…夜はちょっと寒いね」
「風邪ひくなよ、ちゃんと肩まで浸って」
「…お母さんじゃん」

莉子がそう言って笑うと、加瀬はふ、と笑って、膝を抱えて座る莉子の方をちらりと見た。

「お母さんね」

加瀬は、浴槽の木の枠に肘をついて、莉子を見下ろすように、ゆっくりと顔を近づけた。ちゃぽん、と湯が跳ねた音がした。

「か、加瀬っ」
「透真」
「と、とうま」

思わず口にした苗字を、加瀬がゆっくりと訂正した。
なんとなく、胸を隠すように腕が交差する。
湯気が夜風に触れて、ゆっくりとほどけていく。

「なんで、そんなに緊張してんの?」
「…恥ずかしいから」
「…もう何回も見てるけど?」
「そういうんじゃないもん、お風呂っていうのは初めてじゃん…」

加瀬はゆっくりと莉子の肩に手を当てて、唇を重ねた。
いつもよりも湿り気を帯びている唇を、ちゃぷりと身体を纏う湯気が覆い隠していく。


「…莉子が、ずっと慣れないのは、…友達感覚が抜けないから?」


唇を離した加瀬が、ぼそりと言った。
莉子は目の前の加瀬の瞳を見つめる。近い距離にあるその中には、自分の姿だけが映っていた。

「そう、なのかな…?透真は、ずっと友達って感覚で…すごい、改めて、照れちゃう」
「…嫌なわけじゃない?」
「嫌じゃないよ!ごめん、そういうんじゃなくて…」

どうしてこんなに加瀬に対して、恥ずかしいという気持ちになるんだろう。
今までたくさんありのままを晒してきて、鼻水までも拭われる関係だったはずなのに、名前を呼んだり呼ばれたり、そういう行為をするのにも覚悟が必要だったり、お風呂に一緒に入るのが恥ずかしかったり。

「全部、ありのままの私を、透真は知ってるから…恋愛での私を見せるって、なんか、逃げ場がない感じがして…」
「…」
「これまで、私って透真にどんな風だったっけ?って思ったり…ずっと友達って思ってたから…女としての私を見せるのが、今更っていう感じがして恥ずかしいのかな…?」


ああ、そうか。

友達だった頃は、加瀬は必要以上に近づいたりせず、私を女として見てると意識したりすることはなくて。一人の人間として、対等に、だから私も、一人の人間として、友達として、異性だとか思わずに、接していた。

でも今は、加瀬の瞳の中に、私を女として見つめていることが、よく分かる。
欲しがられている、と思う。
ずっと、安心して、ありのままを出せていた加瀬の隣という場所に、急に男女という新しい概念が入って来たみたいで、しかもそれがとても熱くて、刺激的で、

友達だった頃は、加瀬との体格差も、その筋肉も、手の大きさも、頼もしいという記号でしかなかったのに、でも今はその全てが、実際に私に触れて、包み込んでくる。

ずっと友達の男というカテゴリーにいた存在が、急に、生物学的な男として、雄としての圧を感じてしまって、

そんなことに、今更気づいたから、本能的にそれに防御反応が出ているのかもしれない。

加瀬の友達だったはずの自分が、加瀬の女になっていく。
その最中であることが、たまらなく莉子を恥ずかしくさせる。


「…引いた?俺が、ずっと友達のふりして、そばにいたこと」
「引いてないよ…」
「…無害なふりして、ずっと好きだったって、…裏切られたとか、思う?」
「思わないよ…」

加瀬の言葉が、少しだけ弱々しくて、莉子は加瀬の頬に手を当てた。
ずっと友達だと思って、加瀬の好意に気づかなかったのも、男として見ていなかったのも事実だ。けれど、加瀬を今好きでいることは、間違いではない。


「…俺が莉子ってすんなり呼べるのは、ずっと、女として見てたからだよ」
「……とう、ま」
「莉子が、俺のこと好きになればいいなって、ずっと思ってた」


その声に微かな震えが含まれている気がする。
それが、加瀬がどれだけ自分の気持ちを押し殺して隣に居続けてくれたのかを、物語っている気がした。

ゆらゆらと波打つ湯面に、ぼんやりと月が揺れていた。
竹でできた筒から、お湯が少しずつ音を立てて流れ落ちている。
遠くで、海の音が静かに聞こえる。

「…とうま」
「…ごめんな、騙してて」
「騙してるなんて、思ってない」

湯船から立ち上る白い湯気が、加瀬の顔まで包んでは、夜の空気に消えていく。

静かに莉子を見る加瀬の髪の毛は、蒸気を浴びてふにゃりとカーブしていた。
額に張り付いた一房の毛先から、一滴の雫がまつ毛に落ち、加瀬が瞬きをするたびにその水滴が瞳を潤ませているように見えた。

「…ほんと?」
「透真が、あの時好きって言ってくれたから、今、私は透真が好きで、それはちゃんと本当で」
「…うん」
「友達でいたときから、透真が過ごしやすい空気を作ってくれて、私をありのままでいさせてくれたから、好きって言ってくれても受け入れられたの」
「…そっか」
「だから、裏切られたとか、騙してたとか、そんなこと思わない」

湯気が夜風に流されていって、湯船の中で加瀬の足が触れた。
加瀬に気持ちを分かって欲しくて、恥ずかしい気持ちは決してマイナスな感情ではないんだってことと、加瀬が抱えているものを、少しでも解放してあげたくて。


「…ずっと好きでいてくれてありがとう」


莉子は震える指先で、加瀬の濡れた首筋をなぞった。
湯気と、体温で、いつもより熱かった。
その熱の源に縋るようにして、莉子は自ら唇を寄せた。

莉子から口付ける回数は、今までとても少なかったような気がする。
それよりも、加瀬からしてくれることの方が多くて、それに甘えていたから。


「透真の、おかげだよ」


加瀬が、返事のように莉子の頬に手を当てて、キスを深めていった。
その濡れた手のひらから、水滴が湯船に落ちる。
加瀬が動くたびに、湯船から少しずつお湯がこぼれていく。


「…好きだよ」
「私もだよ」

キスの合間に落とされた言葉に返事をすると、後頭部に回された手のひらに、少しだけ力が入った。
必死に唇に応えながら、莉子も加瀬の背中に手を回した。

 
 
 
 
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