ひとつの秩序
「晩酌、する?」
「そうだね、せっかく買ったし」
ホテルに来る前に、お酒でも飲もうとコンビニで買っておいたお酒の缶を、加瀬は部屋の冷蔵庫から取り出した。
「腹いっぱいじゃね?」
「うん、お酒だけでいい」
テーブルの上の袋には、おつまみも買っていたので入っていたが、日持ちもするものなので今日食べなくても問題はないだろう。なんとなく、お酒というとあの時の醜態と説教を思い出してしまって、少しだけ気まずい気持ちになる。
「今日はがっつり酔ってもいいよ?」
「一缶だけじゃそんなふうにならないもん」
加瀬も思い出していたようで、ちくりとその時のことを言われ、莉子は悔しくて少しむくれて返す。
大きな窓のそばに置かれた、テーブルと椅子に向かい合わせに座って、テーブルの上に置かれた缶をぷしゅり、と開けた。
「…遠くね?」
「え、そう?」
「こっちくっついてきて」
「…酔ってる?」
「まだ飲んでねーよ」
加瀬の言葉に、莉子は椅子を移動させようとしたが、加瀬が莉子の腕をゆっくりと引っ張った。
一人用の椅子に座る加瀬の膝の上に、後ろ向きに座らせられ、莉子はなんとなく居心地が悪い。一口飲んで、缶をテーブルの上に置いた。
「お、重くない?」
「なに、これも照れるの?」
「いや、普通に、…透真の顔見えないじゃん」
加瀬の固い膝の上で、加瀬の気配を背後に感じながら飲むお酒は、落ち着かない。
すぐ目の前にあった缶を手にとって、白桃味のアルコールを流し込んだ。
しゅわりと喉を流れていく炭酸が弾けた。
「じゃあこっち向く?」
加瀬が窓枠に自分のビール缶を置いて、莉子の腰に手を回した。
莉子が加瀬にチューハイを渡して、ゆっくりと向きを変えた。
「待って、浴衣がはだけるっ」
「暗いし見えない」
「絶対見えてるっ」
電気のつけられていない、薄暗いこの空間は、ベッドが置かれている空間から少しだけ切り離されているかのようだった。
莉子は浴衣を引っ張りながら、下着が見えないようにと、椅子の脇に置いてあったクッションを引っ張り出し、加瀬と自分の身体の間に置いた。
「莉子」
「…なに」
「かわいい」
「……すっぴんですけど」
「顔の話じゃないから」
加瀬が、預けられていた缶チューハイを莉子に渡した。
自分も窓枠のビールを再度手に取り、ゆっくりと流し込んだ。
「…透真って、なんか、思ったより女の子慣れしてるんだよね」
「なに?急に」
「私、透真の恋愛って全然知らない」
「全然慣れてねーよ」
いつから自分のことを好きだったの?と聞いても、ずっとはぐらかされていた。
先ほどの風呂での会話を思い出すと、莉子が片倉を好きだという前からだったと言っていたし、もしかしてもっと前からなのかもしれない、とその後の大浴場で考えていた。
「いつ彼女作ってたの。高校の時はいなかったよね?」
「いなかったよ、知ってるだろ」
「なんで作んなかったの」
「部活と友達と遊んでるだけで楽しかったんだよ」
加瀬はごくごくと流し込むようにビールを飲んだ。
莉子よりはお酒も強い印象で、加瀬が酔っているのなんて、以前酔って莉子の家に押しかけてきた、あの時しか知らなかった。
「全然教えてくんないじゃん」
「別にいい思い出ないからなー」
「そうなの?」
「うん、だからこの話はもうおしまい」
加瀬が身体を起こして、莉子の奥のテーブルに缶を置いた。
もう飲み切ったらしい。そのまま莉子の背中に手を回して抱きしめた。
背中に回された加瀬の手のひらは熱かった。
薄い浴衣だけでは、体温が吸い取られてしまいそうだ。
「どうしたの」
「このクッション邪魔、取っていい?」
「えっ」
莉子の承諾を得る前に、自分の前に挟まれていたクッションを取り上げ、椅子の脇に置いた。莉子の手には、まだ八割ほど残っている、白桃の缶チューハイ。
ピンクと白のパッケージは、まだ手の中で冷たさを保ったままだ。
結露した水滴が、たらりと指先を滑っていき、冷たい痺れを残していく。
「透真くん」
「…なに、莉子ちゃん」
「ふ、莉子ちゃんってなんか変な感じ」
「それは俺も思った」
莉子は笑って、こくりとチューハイを流し込んだ。
甘さの奥に感じるアルコールが、じわりと少しだけ苦くて、冷えていた身体の熱を上げていく。
「なんで今日は、そんな飲むの早いの?」
「…我慢してるから?」
「え?なにを?」
「莉子に触んのを」
「えっ」
部屋の明かりが、身体の左側から煌々と漏れている。
少しだけ開いている襖の奥には、まだシーツがパリッと張られたままのベッドが二つ並んでいる。
「誰かさんが、お風呂ではすっごい恥ずかしがるから、俺は我慢した」
「えっ」
「一応野外だし、止まんなくなりそうだったし」
「やめてよっ」
「むしろありがとうと言ってほしい」
加瀬は莉子の手にあった缶を、するりと取って、一口飲んだ。
薄明かりに照らされて動く喉仏を見る自分の瞳は、きっとゆらりと揺れている。
「…甘い」
「…チューハイだからね」
加瀬がテーブルに缶を置いた。アルミ缶の軽く抜けた音がして、それが何かの合図みたいだった。
「…なんで俺のこと、好きになってくれたの」
「……分かんない」
どちらからともなく、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
ぺたりとした人工的な甘さが口内に広がって、身体の中に炭酸と同じように刺激が広がっていく。
「…分かんないの」
「…うん…」
「考えて」
背中に回された手が、しゅるりと莉子の細い紺色の帯を解いた。
綿の生地が擦れ合う、小さくて乾いた音が、遅れて耳に届いた気がする。
唇が深くなっていくたびに、ぴりりと胸の奥から順番に熱さが広がっていく。
加瀬の肩に置いた手のひらの中で、柔らかい浴衣の生地がくしゃりと皺になっていく。
「ん、」
「はやく」
「っ、かせ、」
「透真」
「と、とうまっ」
きっと、そのうち炭酸が抜けていって、きっとこのまま朝になって、ぬるくて甘ったるいだけの液体になった缶が、テーブルの上に残ったままなんだろう。
そうしてそれを朝一番でぺろりと舐めて、もうぬるいと笑い合おう。
「考えた?」
「わ、かんな」
「だめじゃん」
「とうま、は、なんで、好きなの」
「俺?俺は…」
ああ、もっと、アルコールを入れておけばよかった。
そしたらもっと熱くなって、ぐちゃぐちゃになってしまえたかもしれないのに。
「っ」
「…もう、覚えてないかも」
ねえ、本当はいつから私のこと好きだったの?
そんな問いかけが頭に浮かんでは、すぐにかき消されていった。
もっと、お風呂で温まっておいたら良かったのかもしれない。
とっくに冷えた身体が、また熱を持って、一つに溶けていきそうだ。