まことしやかな恋
「……急になんも喋んなくなるじゃん。諦めた?」
秋の夕暮れをうろこ雲が泳いでいる。空中を散歩している赤とんぼを眺めながら、私は彼の言葉をひとつも拾わず、今日一日を思い出していた。
甘い視線、嬉しそうな笑み、喜ばせたい心、さりげない気遣い、繋がれた手、子どもじみた独占欲、惜しみなく注がれるそれらすべて──抱きしめてもなお溢れるものを、私は享受した。
だから、迷わない。
「────葵子」
名を呼ばれて、振り返る。
決して声を荒らげず、静穏な微笑みで、だけど隙のない雰囲気を纏わせた男が、見上げた先に悠然と立っていた。
デート中、見知らぬ男が現れて、自分の恋人と話していたら大概は面白くないと不機嫌になるか相手を警戒するが、嗣海は理性的な態度を崩さない。
鞍馬大和を視界に収めたまま、私に買った珈琲を渡してきたので、ありがとうと言って受け取った。
「彼は、どちら様かな」
柔らかな声に問われ、私は口を開く。
「うちの生徒。困った問題児」
「そうなんだ。高校生の頃って困らせるようなことしたくなっちゃうもんね」
「ついさっきまで人の困り顔みて楽しんでた大人が何言ってんの」
湯気が立ちのぼる珈琲に口をつけながら、私と嗣海は会話をラリーさせる。気心の知れたやり取りに、取り残された鞍馬 大和は怪訝に眉を寄せていた。
面白くなさそうに、表情をなくしていく。
だが、強引な手段に出たことを当の本人も自覚してるはずだ。引き下がることはない。
仄かに、空気が研ぎ澄まされた。