恋が終わっても、人生は続いていく

第12話:恋をしない理由

「……だから」



グラスの中の氷を見つめたまま、

陽菜は、小さく言った。



「私、もう恋はしないって決めたんです」



静かなバー。

やわらかな灯り。

低く流れる音楽。



現実から少しだけ切り離されたような空間。



向かいには、

さっき出会ったばかりの二人の女性。



そして、

カウンターの奥に立つバーテンダー。



誰も、すぐには言葉を返さなかった。



その沈黙が、

否定されていないようで、

少しだけ救いだった。



「好きになると……いなくなるから」



ぽつりと、続ける。



自分でも、

何度も繰り返してきた言葉。



まるで、

それが真実であるかのように。



「高校のときも、そうで……」



少しだけ、視線を落とす。



「今回も……」



それ以上は、言わなかった。



言わなくても、

もう十分だった。





グラスに口をつける。



少し苦い味。



でも、

その苦さが、

今の自分にはちょうどよかった。





「……怖いんだと思う」



静かに、

三十代の女性が言った。



「また失うのが」



その言葉に、

少しだけ目を見開く。



「……はい」



小さく、頷く。



否定できなかった。





「でも、それって」



四十代の女性が、

ゆっくりと口を開く。



「好きだったってこと、ちゃんと証明してるよね」



「……え?」



思わず、顔を上げる。



「そんなに苦しいのは、それだけ本気だったってことでしょ」



真っ直ぐな言葉。



少しだけ、

胸に刺さる。





「……でも」



言いかけて、

止まる。





(本気だったから、つらい)



それは、わかる。



でも。



(本気だったから、怖い)



その気持ちの方が、

強い。





「それでも、恋しないって決めるの?」



三十代の女性が、

静かに問いかける。





答えは、

決まっているはずだった。



でも。



すぐには、言えなかった。





「……したく、ないです」



やっと絞り出す。



「もう、あんな思いしたくないから」





それが、本音だった。





そのとき。



「それは、あなたのせいじゃない」



静かな声が、落ちる。



バーテンダーだった。





顔を上げる。



彼は、穏やかな表情でこちらを見ている。





「人は、いつかいなくなります」



優しい声。

でも、

残酷なほど真っ直ぐな言葉。





「誰が相手でも」





言葉を、失う。





「でも」



少しだけ、間を置いて。





「好きだった時間まで、なくなるわけじゃない」





その一言が、

胸に、深く落ちる。





(好きだった時間……)



思い出す。



一緒に歩いた夜。



初めての休日。



手を繋いだ温もり。



「無理すんなよ」



あの声。





全部、

ちゃんと残っている。





消えていない。





(……ああ)



胸の奥で、

何かが、少しだけほどける。





「……忘れたくない、です」



気づけば、そう言っていた。





二人の女性が、

少しだけ微笑む。





「忘れなくていいんだよ」



四十代の女性が言う。





「忘れなくても、前には進めるから」





その言葉に、

少しだけ息をのむ。





(前に、進む……?)



まだ、

そんなこと考えられない。



でも。



さっきまでよりも、

少しだけ。





「……いつか」



小さく、呟く。





「いつか、また……」



そこまで言って、

止まる。





(言えない)



まだ、

怖いから。





でも。



完全に否定も、

できなかった。





グラスの中の氷が、

小さく音を立てる。





その音を聞きながら、

ゆっくりと息を吐いた。





「……今は、まだ無理ですけど」



少しだけ、笑う。





「でも……」





「好きだったことは、ちゃんと大事にしたいです」





それが、

今の自分の精一杯だった。





バーテンダーは、

静かに頷いた。





「それで、十分です」





その言葉に、

少しだけ救われる。





夜は、まだ続く。



でも。



さっきよりも、

ほんの少しだけ。



呼吸が、しやすくなっていた。





この恋は、

終わった。



でも。



消えたわけじゃない。





ちゃんと、

ここに残っている。





そして、

それを抱えたままでも。



いつか。



また、歩き出せるのかもしれない。





そう思えた夜だった。
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