恋が終わっても、人生は続いていく

第1話:怖い上司

「ここ、数字違う」

低い声だった。

名前を呼ばれる前に、それが自分に向けられたものだとわかる。

「……すみません」

小さく謝りながら、陽菜は資料を引き寄せた。

指摘された箇所を見る。

確かに、計算が一つずれている。

(まただ……)

胸の奥が、じわりと重くなる。

「確認、したか」

「……はい」

「甘いな」

短く、それだけ言われる。

責めるような言い方ではない。
でも、余計に刺さる。

淡々としていて、感情がない。

だからこそ、自分の未熟さだけが浮き彫りになる。

「すぐ直します」

そう言って、視線を落とした。

それ以上、何も言われなかった。

気づけば、彼はもう別の資料に目を落としている。

――蓮課長。

この部署に異動してきてから、三ヶ月。

未だに、慣れない。

無駄なことは言わない人だ。

雑談もしないし、笑っているところも見たことがない。

仕事は正確で早くて、誰からも信頼されている。

でも。

(怖い……)

そう思ってしまう自分がいる。

ミスをすれば、的確に指摘される。

フォローはしてくれるけど、優しい言葉はない。

正しいことしか言わない人。

だからこそ、逃げ場がない。



「陽菜、これコピーお願い」

「はい」

先輩に呼ばれて、席を立つ。

コピー機の前で、ふう、と小さく息を吐いた。

「大丈夫?」

隣に来た同僚が、小声で言う。

「顔、固まってたよ」

「え……」

思わず頬に手を当てる。

「また蓮課長?」

苦笑しながら聞かれて、曖昧に笑った。

「……ちょっと、ミスしちゃって」

「相変わらず厳しいよね」

「でもあの人、仕事できるからなぁ」

「できるのは分かるけど、もうちょっと優しくてもいいのにね」

同僚の言葉に、小さく頷く。

(優しい……)

そのイメージは、あまりにも遠い。



デスクに戻ると、まだ胸のざわつきが残っていた。

パソコンの画面を見つめる。

数字を入力しながら、さっきの言葉が頭の中で繰り返される。

――甘いな。

(ちゃんと確認したつもりだったのに)

手が、少しだけ止まる。

深呼吸をして、もう一度資料を見直す。

今度は、間違えないように。

そう思うほど、肩に力が入る。



「終わったか」

不意に、背後から声がした。

「っ……はい」

振り返ると、すぐ後ろに蓮が立っていた。

近い。

思ったよりも。

「見せろ」

差し出した資料を、彼は無言で確認する。

その間、息が詰まりそうになる。

ページをめくる音だけが、やけに大きく感じた。

「……いい」

短く言って、資料を返される。

それだけ。

それだけなのに。

胸の奥に、少しだけ安堵が広がる。

(よかった……)

ほっとしている自分に、気づく。



「次から気をつけろ」

「……はい」

視線を上げると、彼はもうこちらを見ていなかった。

すぐに踵を返して、自分の席へ戻っていく。

その背中を、ぼんやりと見つめる。

無駄がない。

迷いもない。

仕事だけを見ている人。

(すごいな……)

ふと、そう思った。

怖いだけじゃない。

ちゃんと、尊敬もしている。

だから余計に。

(苦手……)

小さく息を吐く。



その日の帰り道。

オフィスを出て、夜の空気に触れる。

少しだけ、肩の力が抜けた。

空を見上げると、まだ星は見えない。

街の光に隠れている。

(明日も、また怒られるかな……)

そんなことを考えて、苦笑する。

でも。

――「いい」

あの一言が、頭に残っていた。

短くて、素っ気なくて。

でも、ちゃんと見てくれていた証拠みたいで。

胸の奥が、少しだけ温かくなる。

(……変なの)

自分でもよくわからない感情に、戸惑う。

怖いのに。

苦手なのに。

どうしてか、その言葉が嬉しかった。



このときは、まだ知らなかった。

この人を、好きになるなんて。

そして。

こんなにも、大切な存在になるなんて。
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