恋が終わっても、人生は続いていく

第2話:残業の隣

オフィスの時計が、二十時を回っていた。

フロアには、もうほとんど人がいない。

キーボードを打つ音だけが、静かに響いている。

(……終わらない)

陽菜は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。

今日中にまとめるように言われた資料。

何度も見直しているのに、どこか不安で手が止まる。

(また間違えたらどうしよう)

そんな考えが、頭を離れない。

肩に、力が入る。

一度、手を止めて深呼吸をした。

それでも、不安は消えない。



「……まだ帰ってなかったのか」

不意に、後ろから声がした。

びくっと体が揺れる。

振り返ると、そこにいたのは――

「蓮課長……」

思わず背筋が伸びる。

彼は、コートを片手に持ったまま立っていた。

もう帰るところだったのだろう。

「……すみません」

なぜか謝ってしまう。

「謝ることか」

短く返される。

そのまま、彼は少しだけ近づいてきた。

「何やってる」

「今日中の資料、まだ終わってなくて……」

「見せろ」

有無を言わせない言い方。

慌てて画面を少しずらす。

彼が、隣に立つ。

近い。

思ったよりもずっと。

ほのかに、スーツの匂いがする。

落ち着いた、柔らかい香り。

(……近い)

それだけで、心臓が変に意識してしまう。



「ここ」

彼の指が、画面の一点を示す。

「計算、遠回りしてる」

「え……?」

「この式使えば、一発で出るだろ」

キーボードに手を伸ばして、軽く入力する。

あっという間に、数字が整理されていく。

「……あ」

思わず声が漏れる。

「こうやれば、ミスも減る」

淡々とした説明。

でも、わかりやすい。

「すみません、気づかなくて……」

「慣れてないだけだ」

それだけ言って、彼は少しだけ椅子を引いた。

「座れ」

「え?」

「立ったままじゃやりにくいだろ」

言われて、自分がずっと立っていたことに気づく。

「……すみません」

小さく言って、椅子に座る。

すると――

彼も、隣の空いている席に腰を下ろした。

(え……)

思わず、横を見る。

近い。

さっきより、もっと。

同じ高さで、同じ目線で。

画面を見ている。

(なんで……)

帰るんじゃなかったのだろうか。



「続きやれ」

「……はい」

慌ててキーボードに手を置く。

さっき教えてもらったやり方で、入力していく。

さっきよりも、スムーズに進む。

でも。

(緊張する……)

隣にいるだけで、意識してしまう。

キーを打つ音が、やけに大きく感じる。

ミスしたらどうしよう、とか。

変に思われてないかな、とか。

そんなことばかり考えてしまう。



「そこ、違う」

「っ、すみません」

すぐに指摘が飛ぶ。

でも、声はいつもより少しだけ柔らかい気がした。

「焦るな」

「……はい」

短い言葉。

でも、不思議と落ち着く。

深呼吸をして、もう一度見直す。

今度は、間違えないように。



しばらくして。

「……できました」

小さく言う。

彼は何も言わず、画面に目を落とす。

確認する時間が、少しだけ長く感じた。

(大丈夫かな……)

手のひらに、じんわり汗がにじむ。



「……いい」

その一言で、力が抜けた。

「よかった……」

思わず、本音がこぼれる。

その瞬間。

ふ、と。

ほんの一瞬だけ。

彼が、笑った気がした。

(……え?)

顔を上げる。

でももう、いつもの無表情に戻っている。

見間違いだったのかもしれない。



彼は立ち上がる。

「もう帰れ」

「え、でも……」

「終わっただろ」

「……はい」

「無理して残るな」

背を向けたまま、そう言った。

少しだけ、間を置いて。

「……体壊すぞ」

その言葉が、静かに落ちる。



「……ありがとうございます」

自然と、そう言っていた。

彼は振り返らないまま、

「ああ」

とだけ返す。

そのまま、出口の方へ歩いていく。



一人になったオフィス。

さっきまでの静けさが、少し違って感じる。

画面を閉じて、バッグを手に取る。

胸の奥が、じんわりと温かい。

(怖い人、だけじゃないんだ)

そう思った。

むしろ。

(……優しい人なのかも)

ふと浮かんだその感情に、少しだけ戸惑う。



エレベーターを待ちながら、思い出す。

「焦るな」

「無理して残るな」

短い言葉ばかりなのに。

ちゃんと、気にかけてくれていた。



(なんでだろう)

さっきよりも、少しだけ。

明日、会うのが怖くない。



このとき。

ほんの少しだけ。

彼への見方が、変わり始めていた。
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