恋が終わっても、人生は続いていく

第4話:一線



「……まだ、帰る?」



その一言が、

すべての始まりだった。



仕事終わり。



オフィスの明かりは、

ほとんど消えている。



残っているのは、

数人だけ。





「……うん」



帰るつもりだった。



ちゃんと。





でも。





「少しだけ、寄るか」





神崎の声。





軽い。



いつもと同じ。





(ダメ)



頭の中で、

すぐにブレーキがかかる。





こんな時間に。



二人で。





(ありえない)





「……やめとく」





そう言おうとする。





でも。





「話、途中だろ」





昼間のことを指す。





「……」





確かに。





まだ、

全部は話していない。





(それだけ?)





自分に問いかける。





(本当に、それだけ?)





「……少しだけ」





気づけば、

そう答えていた。





(何してるの、私)







小さなバー。



落ち着いた照明。





仕事帰りの人たちが、

静かに過ごしている。





カウンターに並んで座る。





「何飲む」





「軽いやつ」





それだけの会話。





グラスが置かれる。





一口飲む。





少しだけ、

アルコールが回る。





「……さっきの続き」





神崎が言う。





「家のこと」





「……ああ」





思い出す。





「別に、大したことじゃないよ」





また、

ごまかそうとする。





でも。





「大したことない顔じゃなかった」





すぐに返される。





逃げ場がない。





「……何もないの」





ぽつりと、

また同じ言葉。





「喧嘩もないし」





「不満も、言えるほどじゃない」





「でも」





グラスを見つめる。





「……寂しい」





小さく、

こぼれる。





(言っちゃった)





もう、

引き返せない。





神崎は、

何も言わない。





ただ、

静かに聞いている。





それが、

一番楽だった。





「女として見られてる感じが、しなくて」





「……必要な人ではあるけど」





「それだけっていうか」





言葉が、

止まらない。





「……私、何なんだろうって」





そこで、

やっと気づく。





(こんなに、溜まってたんだ)





ずっと、

押し込めてきたものが。





「……そっか」





神崎が、

静かに言う。





それだけ。





でも。





その一言で、

胸が少し軽くなる。





「ちゃんと、見てほしいよな」





低い声。





「……うん」





素直に頷く。





そのとき。





神崎の手が、

テーブルの上で、

そっと重なった。





(……え?)





驚いて、

顔を上げる。





目が合う。





逸らせない。





「……今、俺は見てる」





その言葉。





まっすぐで。





逃げ場がなくて。





(ダメ)





頭では、

わかってる。





これは、

越えちゃいけないライン。





でも。





(離したくない)





そう思ってしまった。





手を、

引かなかった。





そのまま。





距離が、

ゆっくりと縮まる。





「……やめた方がいいよね」





かすれた声。





最後のブレーキ。





神崎は、

少しだけ間を置いて。





「そうだな」





そう言った。





でも。





手は、

離れない。





(……同じだ)





止める気が、

ない。





お互いに。





そのまま。





触れる。





優しく。





でも、

確実に。





一線を越えた。





その瞬間。





何かが、

壊れた。





でも同時に。





何かが、

満たされた。





(……ああ)





もう、

戻れない。





わかってるのに。





その温もりに、

抗えなかった。
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