恋が終わっても、人生は続いていく

第3話:少しだけ優しい人

「おはようございます」

少しだけ緊張しながら、陽菜は頭を下げた。

「……おはよう」

短い返事。

顔を上げると、蓮はもうパソコンに視線を落としている。

いつも通り。

何も変わらない朝。

――なのに。

(なんか、違う)

自分の中だけが、少し変わっていた。

昨日のことが、頭から離れない。

隣に座って、教えてくれたこと。

「焦るな」と言ってくれた声。

ほんの一瞬、見えた気がした笑顔。

(……気のせい、だったのかな)

そんなことを考えてしまう自分に、小さく息を吐く。



午前中の仕事は、思った以上に忙しかった。

電話対応、来客対応、資料作成。

気がつけば、あっという間に時間が過ぎていく。

(ミスしないように……)

何度も確認しながら、慎重に進める。

でも。

「陽菜、この資料急ぎでお願い」

先輩に声をかけられる。

「はい」

受け取った資料に目を通した瞬間、少しだけ顔が曇る。

(これ……今日中?)

量が多い。

しかも、細かいチェックが必要な内容。

(間に合うかな……)

不安が、胸の奥に広がる。



「それ、午後の会議で使うやつだな」

不意に、横から声がした。

びくっとして顔を上げる。

「……はい」

「どれくらいかかる」

「えっと……二時間くらい、だと思います」

「一時間でやれ」

「……え?」

思わず聞き返してしまう。

彼は、いつもの無表情で言った。

「やり方変えればいける」

そう言って、資料を軽くめくる。

「ここ、全部見る必要ない」

指先で示しながら、

「この項目だけ拾え」

「……あ」

確かに、その方が効率がいい。

でも。

(そんな見方、してなかった……)



「時間ないんだろ」

「……はい」

「なら、やり方変えろ」

短い言葉。

でも、的確すぎる。

「……ありがとうございます」

思わずそう言うと、

「礼はいらん」

とだけ返される。

でも、その声はどこか淡々としていて、冷たくはなかった。



言われた通りに進めてみる。

驚くほど、早い。

今までの半分くらいの時間で、形になっていく。

(すごい……)

思わず、画面を見つめる。

こんなやり方があったなんて。



「できたか」

「……あ、はい」

気づけば、すぐ後ろに立っていた。

「見せろ」

差し出した資料を確認する。

その横顔を、少しだけ見てしまう。

真剣な目。

無駄のない動き。

やっぱり、この人はすごい。



「……いい」

その一言に、ほっとする。

「間に合いそうか」

「はい、なんとか……」

「そうか」

それだけ言って、彼は視線を外した。



午後。

会議は無事に終わった。

提出した資料も問題なく使われて、特に指摘もなかった。

席に戻った瞬間、力が抜ける。

(よかった……)

小さく息を吐く。



「お疲れ」

不意に、頭の上から声が落ちてきた。

「……え?」

顔を上げる。

そこにいたのは、蓮だった。

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「さっきの、ちゃんとできてた」

淡々とした声。

でも。

(褒められた……?)

じわっと、胸が温かくなる。

「あ、ありがとうございます」

少しだけ、声が弾んでしまう。



「……ちゃんと見てる」

ふと、そんな言葉が落ちた。

「え……?」

思わず聞き返す。

でも彼は、もう次の言葉を続けなかった。

「次の仕事、メールで送ってる」

それだけ言って、去っていく。



残された言葉だけが、頭に残る。

――ちゃんと見てる。

(……どういう意味だろう)

でも。

考えるまでもなく、心はもう答えを出していた。

(見てくれてたんだ……)

今までのことも。

ミスも。

努力も。

全部。



その瞬間。

胸の奥で、何かがふわりとほどけた。

怖い人、だけじゃない。

厳しい人、だけでもない。

この人は。

(……優しい人だ)

そう思った。



帰り道。

いつもより、足取りが軽い。

特別なことがあったわけじゃないのに。

ただ、一言。

「お疲れ」

と言われただけなのに。



(単純だな、私)

小さく笑う。

でも。

それだけで、こんなにも嬉しいと思ってしまう。



そして、気づいてしまう。

(……この人の言葉、嬉しい)

それが、どういう意味を持つのか。

まだ、はっきりとはわからない。

でも。

確実に。

少しずつ。

心は、そちらに向かっていた。
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