恋が終わっても、人生は続いていく

第4話:帰り道の距離

その日は、いつもより帰る時間が遅くなった。

時計は、二十一時を少し過ぎている。

フロアには、もう数人しか残っていなかった。

(今日は、もうミスしてないよね……)

最後の確認をして、パソコンを閉じる。

ふう、と小さく息を吐いた。

少しだけ、疲れた。

でも。

(今日は、ちゃんとできた)

そう思えるだけで、気持ちは軽かった。



「帰るのか」

不意に、声がした。

顔を上げると、蓮が立っていた。

「……はい」

思わず姿勢を正す。

「お先に失礼します」

そう言って、バッグを肩にかけた。

彼も、ちょうど帰るところだったのか。

コートを手にしている。



エレベーターの前。

並んで立つ。

沈黙。

でも、不思議と気まずくはなかった。

(……何か話した方がいいのかな)

そう思うのに、言葉が出てこない。

何を話せばいいのか、わからない。



「さっきの資料」

彼が、ぽつりと言った。

「……はい」

「問題なかった」

「本当ですか?」

思わず顔を上げる。

「課長にも通ってた」

「……よかった」

胸の奥が、じんわりと温かくなる。



エレベーターが到着する。

二人で乗り込む。

狭い空間。

ドアが閉まる音が、やけに大きく感じる。

(近い……)

横に立つだけで、距離を意識してしまう。

視線をどこに置けばいいのかわからなくて、

前だけを見つめた。



「最近、ミス減ったな」

ふいに、言われる。

「え……?」

「前より、ちゃんと確認してる」

その言葉に、少しだけ息が止まる。

(見てくれてる……)

また、その感覚。

胸の奥が、きゅっと締まる。

「……ありがとうございます」

小さく答える。



「まあ」

彼が、少しだけ間を置いてから言った。

「最初からできるやつなんていない」

淡々とした声。

でも、その言葉はどこか優しかった。



一階に着く。

ドアが開く。

外に出ると、夜の空気がひんやりとしていた。

「お疲れ様でした」

そう言って、軽く頭を下げる。

「……ああ」

短い返事。

そのまま、彼は別の方向に歩き出そうとして――

「送る」

「え……?」

思わず振り返る。

「同じ方向だろ」

「でも……」

「遅い時間だ」

それだけ。

理由としては、十分すぎた。



並んで歩く。

夜道。

街灯の光が、足元を照らす。

隣にいるだけで、少しだけ緊張する。

でも。

嫌じゃない。

むしろ――

(落ち着く……)

不思議と、そう思った。



「家、どの辺だ」

「えっと、この先の交差点を曲がって……」

言いながら、少しだけ先を指さす。

「そうか」

それだけ言って、彼は歩調を合わせてくれる。



沈黙。

でも、その沈黙が苦しくない。

何も話さなくてもいい。

無理に言葉を探さなくてもいい。

ただ、隣を歩いているだけで。

(……安心する)

そう感じてしまう自分に、少し驚く。



「……あの」

思い切って、声を出す。

「なんだ」

「さっきの……」

言いかけて、止まる。

(何を言おうとしたんだろう)

うまく言葉にならない。

「……いえ、なんでもないです」

小さく笑って、ごまかす。



彼は、少しだけこちらを見た。

「そうか」

それ以上は、何も聞いてこない。

踏み込まない距離。

でも、突き放すわけでもない。

その絶妙な距離が、心地よかった。



マンションの前に着く。

「ここまでで大丈夫です」

足を止めて、振り返る。

「……ああ」

彼も足を止める。

少しだけ、間があく。



「今日は、ありがとうございました」

「何がだ」

「送っていただいたのと……」

少しだけ迷ってから、

「いろいろ、教えていただいて」

そう言うと、

「仕事だ」

短く返される。

でも。



「……無理すんなよ」

ぽつりと、落ちた言葉。

あのときと同じ。

静かで、優しい声。



胸が、強く鳴る。

(ああ……)

その瞬間、はっきりとわかった。



(ダメだ)



好きになってる。



気づいてしまった。

でも同時に、

強く思う。



(好きになっちゃ、ダメなのに)



理由は、わかってる。

ちゃんと、覚えてる。

あのときのことも。

失った痛みも。

全部。



それでも。

目の前の人を、見てしまう。



「……はい」

それだけ、なんとか返す。

これ以上、何か言ったら、

全部こぼれてしまいそうで。



「じゃあな」

彼はそれだけ言って、背を向ける。

迷いなく、歩いていく。



その背中を、見送る。

少しずつ遠くなる。

でも。

目が離せなかった。



(どうして……)

胸が苦しい。

嬉しいのに。

怖い。



(また、いなくなったらどうしよう)



ふいに、そんな考えがよぎる。



慌てて、首を振る。

(違う……考えすぎ)

そう思いたいのに。



夜空を見上げる。

街の光で、星は見えない。



でも。

さっきまで隣にいた温もりだけが、

消えずに残っていた。
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