秘書の誕生日、一夜のはずが社長に溺愛されています
何も知らない顔。

(……これでいい)

この人は、何も知らないままでいい。

そう思った瞬間――胸が締めつけられる。

「どうした」

「いえ……」

一歩、近づく。逃げないように、自分に言い聞かせながら。

「社長」

まっすぐ見つめる。

声が震えそうになるのを、必死に押さえる。

「……もう、終わりにしましょう」

言った。言ってしまった。

その瞬間、心のどこかが崩れる音がした。

「これ以上……社長の側にいたら、ダメなんです」

言葉が続く。止められない。

「仕事としても……個人的にも」

「愛果」

低い声で名前を呼ばれる。

でも、もう引き返せない。

「私……これ以上、続けられません」

視界が滲む。

それでも、最後まで言い切る。

(これでいい)

これで、終わり。

そう思ったのに――胸の奥が、どうしようもなく痛かった。
< 53 / 90 >

この作品をシェア

pagetop