初恋はまだ終わらない、隣の席で
第10話 ピアノのふた
土曜の午後、麻美は「文明」の前で少しだけ立ち止まった。木枠の扉の向こうから、カップの触れ合う乾いた音と、豆を挽く低い音が聞こえる。取材の続きで来たはずなのに、店へ入る前から心拍だけが先に忙しい。
今日の目的は、店内に置かれたアップライトピアノについて話を聞くことだった。町民ホールの改修で一時的に移されてきたと聞いてはいたが、由来をちゃんと記事へ入れたい。そう編集長に言われたのだ。
「いらっしゃい。仕事顔だ」
扉を開けるなり、晃聡がそう言った。カウンターの中でネルドリップの湯を回している。昼の混雑は一段落したようで、店内の客は窓際に老夫婦が一組だけだった。
「仕事です」
「知ってる。わざわざ言う時は、逆に意識してる」
「うるさい」
「はいはい」
奥の壁際には、あのアップライトピアノが置かれている。艶の落ちた黒い塗装、真鍮のペダル、少しだけ傷のついた譜面台。飾りではなく、長く使われてきた道具の顔をしていた。
明は先に来ていたらしく、窓側からピアノの全体を撮っていた。店の照明を反射しすぎない角度を探しているのがわかる。麻美はノートを開き、晃聡へたずねた。
「これ、いつからここにあるんだっけ」
「三か月前から。町民ホールの床張り替えするってんで、一時避難」
「運ぶの大変だったでしょ」
「そりゃな。風介と滉矢も駆り出した。俺、二度とやりたくない」
そう言いながらも、晃聡の目は少しだけやさしかった。預かりものというより、今はもう、この店の景色の一部になっているらしい。
「彩奏が定期的に調律師さん呼んでる。誰も弾いてないように見えるけど、置きっぱなしにしとくと機嫌悪くなるんだと」
「機嫌」
「楽器ってそういう言い方するだろ」
麻美はピアノへ近づいた。鍵盤蓋の端へ指を伸ばし、その途中で止める。触ってはいけない気がしたわけではない。触れた瞬間に、何か思い出しそうだったからだ。
「開けてみる?」
不意に、後ろから明の声がした。振り向くと、明がカメラを下げたまま立っている。
「……いいの」
「鍵盤見たいんだろ」
「見たいけど」
「じゃあ」
明はピアノの横へ回り、蓋の取っ手へ手をかけた。持ち上げ方が妙に慎重で、子どものころに見た動きとほとんど同じだった。
その瞬間、記憶がはっきり戻る。
夏の終わりの町民ホール。誰もいない練習室。明が「音、一個だけなら怒られない」と言って、そっと蓋を開けた。麻美は高すぎる椅子へよじ登り、指一本で白い鍵盤を押した。ぽん、と乾いた高音が鳴る。二人で顔を見合わせて、すぐに笑った。誰にも言わない秘密みたいで、胸の奥が熱くなった。
今、目の前で開かれた鍵盤は、あの時より少し黄ばんで見えた。けれど並んだ白と黒の感じは同じだ。
「……覚えてる?」
気づけば、麻美の口からこぼれていた。
明は鍵盤を見たまま、短く言う。
「覚えてる」
「私、一音しか鳴らしてない」
「十分うるさかった」
「ひどい」
「嘘。あの時、嬉しそうだった」
その返事が、麻美の胸の奥を静かに打った。覚えてる。さっきのラスクの時と同じように、明はそれを大げさにしない。だから余計に本当らしい。
晃聡が、わざとらしくカップを大きめの音でソーサーへ置いた。
「はいはい。懐かしい話するなら、コーヒー一杯ずつ頼んでからにして」
「商売っ気が急に出た」
「慈善事業じゃないんで」
麻美は苦笑しながらブレンドを頼み、明はアイスコーヒーを頼んだ。季節の変わり目でも、明は冷たいものを選びがちだ。昔もそうだった。思い出したくないような些細なことまで、案外残っている。
席へ移って話を続けていると、晃聡が、ピアノはもともと町民ホールで子どもの発表会や朗読会に使われていたこと、そのたび彩奏が調律に付き添っていたことを話してくれた。人が座る高さ、譜面台の角度、開く蓋の重さ。そういう細部の説明があるほど、このピアノがただの小道具ではなく、町の時間を抱えているものだとわかる。
明は途中で何枚か撮り直しに立ち、今度はピアノの鍵盤ではなく、蓋へ触れた麻美の手もとを画面へ入れた。
「え、手?」
「記事で使うかもしれない」
「顔じゃなくて?」
「顔より、このほうが話してる」
晃聡がすぐさま笑う。
「お、言うようになったなあ」
「何が」
「前は、情報撮ってたのに」
明は返事をせず、液晶画面を確認した。麻美は、その言葉を内側で繰り返す。顔より、このほうが話してる。そういう見方を、明は前から持っていただろうか。いや、持っていたのに使わなかったのかもしれない。
コーヒーが運ばれてきた。湯気がまっすぐ立つ。その向こうで、ピアノの蓋は静かに開いたままだ。
「この店にあると、不思議と似合うね」
麻美が言うと、晃聡が肩をすくめた。
「古いものしか似合わない店だから」
「自分で言う」
「いい意味だよ」
窓際の老夫婦が会計を済ませて出ていき、店内は一段と静かになった。外の商店街を歩く人の影が、ガラス越しに短く流れる。その光景を見ながら、麻美は思う。ピアノも、人も、場所も、急に親しくなるわけではない。ただ、何度か同じ空気の中へ置かれて、少しずつ馴染んでいくのだ。
帰る前、明が蓋を閉じる動きを、麻美はまた見ていた。開ける時より少しだけゆっくりだ。挟まないように、音を立てないように。あの時もきっとそうだったのだろう。自分は鍵盤の音に気を取られていただけで、隣には最初からそういう手つきの人がいたのだ。
店の外へ出ると、夕方の風が少し冷たかった。麻美は振り返り、木枠の窓の奥に置かれたピアノをもう一度見た。記憶というのは不思議だ。開いていたはずの蓋が、今日になってもう一度、ゆっくり開いたような気がした。
【終】
土曜の午後、麻美は「文明」の前で少しだけ立ち止まった。木枠の扉の向こうから、カップの触れ合う乾いた音と、豆を挽く低い音が聞こえる。取材の続きで来たはずなのに、店へ入る前から心拍だけが先に忙しい。
今日の目的は、店内に置かれたアップライトピアノについて話を聞くことだった。町民ホールの改修で一時的に移されてきたと聞いてはいたが、由来をちゃんと記事へ入れたい。そう編集長に言われたのだ。
「いらっしゃい。仕事顔だ」
扉を開けるなり、晃聡がそう言った。カウンターの中でネルドリップの湯を回している。昼の混雑は一段落したようで、店内の客は窓際に老夫婦が一組だけだった。
「仕事です」
「知ってる。わざわざ言う時は、逆に意識してる」
「うるさい」
「はいはい」
奥の壁際には、あのアップライトピアノが置かれている。艶の落ちた黒い塗装、真鍮のペダル、少しだけ傷のついた譜面台。飾りではなく、長く使われてきた道具の顔をしていた。
明は先に来ていたらしく、窓側からピアノの全体を撮っていた。店の照明を反射しすぎない角度を探しているのがわかる。麻美はノートを開き、晃聡へたずねた。
「これ、いつからここにあるんだっけ」
「三か月前から。町民ホールの床張り替えするってんで、一時避難」
「運ぶの大変だったでしょ」
「そりゃな。風介と滉矢も駆り出した。俺、二度とやりたくない」
そう言いながらも、晃聡の目は少しだけやさしかった。預かりものというより、今はもう、この店の景色の一部になっているらしい。
「彩奏が定期的に調律師さん呼んでる。誰も弾いてないように見えるけど、置きっぱなしにしとくと機嫌悪くなるんだと」
「機嫌」
「楽器ってそういう言い方するだろ」
麻美はピアノへ近づいた。鍵盤蓋の端へ指を伸ばし、その途中で止める。触ってはいけない気がしたわけではない。触れた瞬間に、何か思い出しそうだったからだ。
「開けてみる?」
不意に、後ろから明の声がした。振り向くと、明がカメラを下げたまま立っている。
「……いいの」
「鍵盤見たいんだろ」
「見たいけど」
「じゃあ」
明はピアノの横へ回り、蓋の取っ手へ手をかけた。持ち上げ方が妙に慎重で、子どものころに見た動きとほとんど同じだった。
その瞬間、記憶がはっきり戻る。
夏の終わりの町民ホール。誰もいない練習室。明が「音、一個だけなら怒られない」と言って、そっと蓋を開けた。麻美は高すぎる椅子へよじ登り、指一本で白い鍵盤を押した。ぽん、と乾いた高音が鳴る。二人で顔を見合わせて、すぐに笑った。誰にも言わない秘密みたいで、胸の奥が熱くなった。
今、目の前で開かれた鍵盤は、あの時より少し黄ばんで見えた。けれど並んだ白と黒の感じは同じだ。
「……覚えてる?」
気づけば、麻美の口からこぼれていた。
明は鍵盤を見たまま、短く言う。
「覚えてる」
「私、一音しか鳴らしてない」
「十分うるさかった」
「ひどい」
「嘘。あの時、嬉しそうだった」
その返事が、麻美の胸の奥を静かに打った。覚えてる。さっきのラスクの時と同じように、明はそれを大げさにしない。だから余計に本当らしい。
晃聡が、わざとらしくカップを大きめの音でソーサーへ置いた。
「はいはい。懐かしい話するなら、コーヒー一杯ずつ頼んでからにして」
「商売っ気が急に出た」
「慈善事業じゃないんで」
麻美は苦笑しながらブレンドを頼み、明はアイスコーヒーを頼んだ。季節の変わり目でも、明は冷たいものを選びがちだ。昔もそうだった。思い出したくないような些細なことまで、案外残っている。
席へ移って話を続けていると、晃聡が、ピアノはもともと町民ホールで子どもの発表会や朗読会に使われていたこと、そのたび彩奏が調律に付き添っていたことを話してくれた。人が座る高さ、譜面台の角度、開く蓋の重さ。そういう細部の説明があるほど、このピアノがただの小道具ではなく、町の時間を抱えているものだとわかる。
明は途中で何枚か撮り直しに立ち、今度はピアノの鍵盤ではなく、蓋へ触れた麻美の手もとを画面へ入れた。
「え、手?」
「記事で使うかもしれない」
「顔じゃなくて?」
「顔より、このほうが話してる」
晃聡がすぐさま笑う。
「お、言うようになったなあ」
「何が」
「前は、情報撮ってたのに」
明は返事をせず、液晶画面を確認した。麻美は、その言葉を内側で繰り返す。顔より、このほうが話してる。そういう見方を、明は前から持っていただろうか。いや、持っていたのに使わなかったのかもしれない。
コーヒーが運ばれてきた。湯気がまっすぐ立つ。その向こうで、ピアノの蓋は静かに開いたままだ。
「この店にあると、不思議と似合うね」
麻美が言うと、晃聡が肩をすくめた。
「古いものしか似合わない店だから」
「自分で言う」
「いい意味だよ」
窓際の老夫婦が会計を済ませて出ていき、店内は一段と静かになった。外の商店街を歩く人の影が、ガラス越しに短く流れる。その光景を見ながら、麻美は思う。ピアノも、人も、場所も、急に親しくなるわけではない。ただ、何度か同じ空気の中へ置かれて、少しずつ馴染んでいくのだ。
帰る前、明が蓋を閉じる動きを、麻美はまた見ていた。開ける時より少しだけゆっくりだ。挟まないように、音を立てないように。あの時もきっとそうだったのだろう。自分は鍵盤の音に気を取られていただけで、隣には最初からそういう手つきの人がいたのだ。
店の外へ出ると、夕方の風が少し冷たかった。麻美は振り返り、木枠の窓の奥に置かれたピアノをもう一度見た。記憶というのは不思議だ。開いていたはずの蓋が、今日になってもう一度、ゆっくり開いたような気がした。
【終】