初恋はまだ終わらない、隣の席で
第11話 マホガニーオブシディアン
月曜の夕方、取材ノートの整理に追われていた麻美の携帯へ、彩奏から短いメッセージが入った。
『この前の石、記事に使うなら写真撮りやすいように貸そうか?』
最初は断ろうと思った。石そのものを記事へ大きく入れる予定はない。けれど、あの茶色い筋をもう一度見たい気持ちが、たしかにあった。
終業後、麻美は教室の前を通りかかる形で石を受け取りに行った。夕方六時の住宅地は、夕飯のにおいと、部活帰りの自転車の音が混ざっている。教室の中からは、まだ誰かがゆっくりバイエルを弾いていた。
彩奏は玄関で小さな布袋を手渡してくれた。中に、あのマホガニーオブシディアンが入っている。
「重いから気をつけて」
「そんなに?」
「見た目よりね」
受け取ると、たしかに掌へずしりと収まった。冷たくて、丸みがある。
「記事に使うかはわからないけど」
「使わなくてもいいよ。見たくなっただけでも」
彩奏の言い方は、相変わらず先回りしすぎない。わかっていても、決めつけてこない。
「……これ、いつも何で置いてるの」
「なんとなく。子どもって、石とか好きでしょ」
「雑」
「あと、黒く見えるのに中に色がある感じ、好きなんだよね」
玄関先でそんな話をしていると、教室の奥から明るい子どもの声がした。彩奏は「じゃ、また」と手を振り、すぐにレッスン室へ戻っていった。
麻美は布袋を鞄へしまい、その足で「文明」へ寄った。今週号の聞き書き原稿の確認を晃聡へ頼まれていたのだ。店に入ると、カウンターの端で明がノートパソコンを開いていた。撮影データの整理をしているらしい。
「お疲れ」
晃聡が豆を量りながら言う。
「お疲れさま」
「そこ座りな。今、ちょうど手が空いた」
麻美がカウンターへ座ると、布袋が鞄の口から少しだけ見えた。明の視線がそこへ落ちる。
「それ、何」
「彩奏に借りた石」
「石」
「石」
麻美が取り出すと、店の照明の下ではやはり黒く見えた。けれど、窓際へ寄せると、暗い表面の内側に茶色い筋がゆっくり現れる。
「マホガニーオブシディアンだって」
「へえ」
「黒く見えるのに、光当てると見えるの」
晃聡が横から覗き込み、
「コーヒー豆みたいな名前だな」
と言って笑った。
「全然違う」
「知らん。とにかく店に置いとくと、なんか運気上がりそう」
「雑だなあ」
いつもの軽口が少しありがたかった。石のことを真剣に話しすぎると、いまの自分の胸まで見透かされそうだったからだ。
明はコーヒーカップの向こうで石を見ていた。しばらくして、低い声で言う。
「見えないだけで、あるんだな」
麻美は顔を上げた。明は石を見たまま続ける。
「模様」
「うん」
「最初から」
「たぶん」
最初からある。ただ、角度が合わないと見えない。その説明が、今の自分たちに近すぎて、麻美は少しだけ息を止めた。
晃聡が空気を読むように、わざとらしく伝票を広げる。
「よし。原稿の話するか。おまえら、そのままだと石から人生論まで行く」
助かったような、助からなかったような気分で、麻美は聞き書き原稿を読み上げた。晃聡は祖母の話になるとだけ少し真面目になり、そのほかは「俺、こんなにいいやつに見える?」と笑って茶化した。明は途中で写真の色味を確認しながら、必要な箇所でだけ口を挟む。そのいつもの流れがあるおかげで、石の話はカウンターの上で静かに置かれたままになった。
確認が済み、晃聡が奥へ豆を取りに立ったときだった。店内に二人だけの沈黙が落ちる。
「この前の教室の写真」
明が言う。
「うん」
「自分でも、ちょっと変わったと思った」
麻美は返事を急がなかった。明はキーボードから手を離し、少しだけ遠くを見るような目で続ける。
「前は、ちゃんと撮ることばっかり考えてた。邪魔しないこととか、情報が足りることとか」
「それは大事じゃないの」
「大事。でも、それだけだと、写らないものがある」
その言葉は、たぶん石の話の続きだった。けれど、写真だけの話ではない気がした。
明はそこで言葉を切った。もっと先へ進みかけて、止めたのがわかる。麻美は追わなかった。追えば壊れるものがあるのではなく、今は、自分のほうもまだ受け止めきれないからだ。
それでも、胸のどこかで確かに思う。まだ好きだ。過去形ではなく、たぶん現在形で。
その認識は、声に出さなくても体の中へ広がる。肩の内側、喉の奥、指先。自分の気持ちを言葉へ変える前に、まず身体のほうが知ってしまうことがある。
晃聡が戻ってきて、三人分のコーヒー豆の袋をどさりと置いた。
「はい、現実。石のつぎは請求書な」
「落差がすごい」
「店はロマンだけで回らないので」
笑いながらも、麻美は石をもう一度布袋へ戻した。黒く見えるものの中に、ちゃんと色がある。見えないからといって、消えているわけじゃない。
帰り道、鞄の中で石が小さく重みを主張していた。夜の空気はまだ冷える。交差点の信号待ちで立ち止まったとき、麻美は信号機の青い光を見上げながら思った。
自分はずっと、「好きだった」と言えば済むと思っていたのかもしれない。終わった恋なら、その言い方で箱へしまえるから。けれど本当は、しまえていなかった。だから再会してからの毎日が、こんなに細かく効く。
家へ帰って机の上へ石を置き、デスクライトを点ける。角度を変えるたび、茶色い筋が見えたり消えたりした。
見えないからないんじゃない。見えないままにしていただけだ。
その夜遅く、明の携帯へ東京の仕事仲間からメールが届いたことを、麻美はまだ知らない。画面に表示された件名は、新連載撮影の正式打診。明はしばらくそれを見つめたあと、返信画面だけ開いて、結局、何も打たずに閉じた。
決めきれないものがある夜は、誰にでも少しだけ長い。
【終】
月曜の夕方、取材ノートの整理に追われていた麻美の携帯へ、彩奏から短いメッセージが入った。
『この前の石、記事に使うなら写真撮りやすいように貸そうか?』
最初は断ろうと思った。石そのものを記事へ大きく入れる予定はない。けれど、あの茶色い筋をもう一度見たい気持ちが、たしかにあった。
終業後、麻美は教室の前を通りかかる形で石を受け取りに行った。夕方六時の住宅地は、夕飯のにおいと、部活帰りの自転車の音が混ざっている。教室の中からは、まだ誰かがゆっくりバイエルを弾いていた。
彩奏は玄関で小さな布袋を手渡してくれた。中に、あのマホガニーオブシディアンが入っている。
「重いから気をつけて」
「そんなに?」
「見た目よりね」
受け取ると、たしかに掌へずしりと収まった。冷たくて、丸みがある。
「記事に使うかはわからないけど」
「使わなくてもいいよ。見たくなっただけでも」
彩奏の言い方は、相変わらず先回りしすぎない。わかっていても、決めつけてこない。
「……これ、いつも何で置いてるの」
「なんとなく。子どもって、石とか好きでしょ」
「雑」
「あと、黒く見えるのに中に色がある感じ、好きなんだよね」
玄関先でそんな話をしていると、教室の奥から明るい子どもの声がした。彩奏は「じゃ、また」と手を振り、すぐにレッスン室へ戻っていった。
麻美は布袋を鞄へしまい、その足で「文明」へ寄った。今週号の聞き書き原稿の確認を晃聡へ頼まれていたのだ。店に入ると、カウンターの端で明がノートパソコンを開いていた。撮影データの整理をしているらしい。
「お疲れ」
晃聡が豆を量りながら言う。
「お疲れさま」
「そこ座りな。今、ちょうど手が空いた」
麻美がカウンターへ座ると、布袋が鞄の口から少しだけ見えた。明の視線がそこへ落ちる。
「それ、何」
「彩奏に借りた石」
「石」
「石」
麻美が取り出すと、店の照明の下ではやはり黒く見えた。けれど、窓際へ寄せると、暗い表面の内側に茶色い筋がゆっくり現れる。
「マホガニーオブシディアンだって」
「へえ」
「黒く見えるのに、光当てると見えるの」
晃聡が横から覗き込み、
「コーヒー豆みたいな名前だな」
と言って笑った。
「全然違う」
「知らん。とにかく店に置いとくと、なんか運気上がりそう」
「雑だなあ」
いつもの軽口が少しありがたかった。石のことを真剣に話しすぎると、いまの自分の胸まで見透かされそうだったからだ。
明はコーヒーカップの向こうで石を見ていた。しばらくして、低い声で言う。
「見えないだけで、あるんだな」
麻美は顔を上げた。明は石を見たまま続ける。
「模様」
「うん」
「最初から」
「たぶん」
最初からある。ただ、角度が合わないと見えない。その説明が、今の自分たちに近すぎて、麻美は少しだけ息を止めた。
晃聡が空気を読むように、わざとらしく伝票を広げる。
「よし。原稿の話するか。おまえら、そのままだと石から人生論まで行く」
助かったような、助からなかったような気分で、麻美は聞き書き原稿を読み上げた。晃聡は祖母の話になるとだけ少し真面目になり、そのほかは「俺、こんなにいいやつに見える?」と笑って茶化した。明は途中で写真の色味を確認しながら、必要な箇所でだけ口を挟む。そのいつもの流れがあるおかげで、石の話はカウンターの上で静かに置かれたままになった。
確認が済み、晃聡が奥へ豆を取りに立ったときだった。店内に二人だけの沈黙が落ちる。
「この前の教室の写真」
明が言う。
「うん」
「自分でも、ちょっと変わったと思った」
麻美は返事を急がなかった。明はキーボードから手を離し、少しだけ遠くを見るような目で続ける。
「前は、ちゃんと撮ることばっかり考えてた。邪魔しないこととか、情報が足りることとか」
「それは大事じゃないの」
「大事。でも、それだけだと、写らないものがある」
その言葉は、たぶん石の話の続きだった。けれど、写真だけの話ではない気がした。
明はそこで言葉を切った。もっと先へ進みかけて、止めたのがわかる。麻美は追わなかった。追えば壊れるものがあるのではなく、今は、自分のほうもまだ受け止めきれないからだ。
それでも、胸のどこかで確かに思う。まだ好きだ。過去形ではなく、たぶん現在形で。
その認識は、声に出さなくても体の中へ広がる。肩の内側、喉の奥、指先。自分の気持ちを言葉へ変える前に、まず身体のほうが知ってしまうことがある。
晃聡が戻ってきて、三人分のコーヒー豆の袋をどさりと置いた。
「はい、現実。石のつぎは請求書な」
「落差がすごい」
「店はロマンだけで回らないので」
笑いながらも、麻美は石をもう一度布袋へ戻した。黒く見えるものの中に、ちゃんと色がある。見えないからといって、消えているわけじゃない。
帰り道、鞄の中で石が小さく重みを主張していた。夜の空気はまだ冷える。交差点の信号待ちで立ち止まったとき、麻美は信号機の青い光を見上げながら思った。
自分はずっと、「好きだった」と言えば済むと思っていたのかもしれない。終わった恋なら、その言い方で箱へしまえるから。けれど本当は、しまえていなかった。だから再会してからの毎日が、こんなに細かく効く。
家へ帰って机の上へ石を置き、デスクライトを点ける。角度を変えるたび、茶色い筋が見えたり消えたりした。
見えないからないんじゃない。見えないままにしていただけだ。
その夜遅く、明の携帯へ東京の仕事仲間からメールが届いたことを、麻美はまだ知らない。画面に表示された件名は、新連載撮影の正式打診。明はしばらくそれを見つめたあと、返信画面だけ開いて、結局、何も打たずに閉じた。
決めきれないものがある夜は、誰にでも少しだけ長い。
【終】
