初恋はまだ終わらない、隣の席で
第9話 初恋はまだ終わらない

 金曜日の午後、編集部はいつもより静かだった。校了明けで電話が少なく、窓の外では春の風がビルの隙間を抜けていく。麻美は第二回までの掲載内容を整理しながら、次号の見出し案を考えていた。

 白い紙の上へ、候補を書いては消す。

 「町角にある約束」
 「毎日のすきまの恋」
 「暮らしの中のふたり」

 どれもしっくりこない。悪くはないのに、奥まで届かない。机の端では、妙依が赤ペンを持って前号の校正紙をめくっている。ページを送る音だけが、規則正しく聞こえた。

「刺さらない」
 
 麻美が小さくこぼすと、向かいの席にいた瑞葉が顔を上げた。
「誰に」
「読者にも、自分にも」
「自分に刺さらない見出しは、たぶん読者にも刺さらないよ」
「それはわかる」
「じゃあ、逃げないほう書けば」
 
 瑞葉は簡単に言う。簡単に言うから、時々ずるい。

 次号で扱うのは、若いころに離れたあと、定年を過ぎてから再会し、一緒に小さな畑を始めた夫婦の話だった。派手な再会劇ではなく、毎朝同じ時間に水をやる、その積み重ねの話。麻美は取材メモをめくり、二人が言った言葉を追った。

 ずっと忘れたつもりでいた。
 でも、見かけた時にわかった。
 若いころと同じじゃないのに、同じものが残っていた。

 その流れの上へ、気づけばペンが動いていた。

 初恋はまだ終わらない

 書いた瞬間、指先が止まった。

「……え」
 
 自分で書いたくせに、声が出た。紙の上の文字だけが、やけにくっきり見える。

「何て?」
 瑞葉が覗き込みかける。
「いや、まだ仮」
「見せて」
「だめ」
 
 あわてて紙を伏せたが、遅かった。妙依が向かいから顔も上げずに言う。

「今の、いいと思います」
「見てたの?」
「見えました」
「見ないで」
「視界に入ったものまで責任取れません」

 妙依はそこでようやく顔を上げ、麻美の手元の紙へ視線を落とした。
「書いた人が、いちばん刺さる見出しですね」
 
 その言い方が静かすぎて、麻美は返す言葉を失った。図星だったからだ。刺さる。とても。読者より先に、自分に。

 編集長へ案を持っていくと、予想以上に反応が早かった。椅子へ深く座ったまま、紙を見て一度だけ大きくうなずく。
「これだな」
「え」
「いい。強いし、でも大げさすぎない」
「仮ですよ」
「見出しなんて、だいたい最初に出たやつが残る」
 
 その乱暴な確信に押されるように、案は採用された。

 夕方、レイアウトの確認で明が編集部へ来た。ページの配置、写真のトリミング、余白の取り方。いつものように必要なことだけを話していたのに、校正紙の上へ見出しが置かれた瞬間、明の視線がわずかに止まった。

「……このタイトル」
「仮」
 麻美は、ほとんど反射で言った。
「まだ仮だから」
「いや、いいと思う」
 
 明はそれ以上何も言わなかった。けれど、良い見出しですね、ではなく、いいと思う、だった。その言い方がひどく個人的で、麻美の胸の奥へ残る。

 作業が一区切りついたあと、明は印刷見本を抱えて帰っていった。編集部の窓からその背中を見送っていると、妙依が横へ来た。

「恋愛特集なのに、恋愛に詳しい人が作ってる感じがしないのが、逆にいいんですよね」
「褒めてる?」
「半分」
「残り半分は」
「当事者だからです」
 
 妙依はそう言って、自分の席へ戻った。言葉数は少ないのに、言い逃れできる余地を残してくれない。

 夜、帰宅した麻美は、いつもより長く台所へ立った。味噌汁を温め、冷蔵庫の残り物で簡単な炒め物を作り、洗い物を済ませる。手は動いているのに、頭の中ではあの見出しがずっと残っていた。

 初恋はまだ終わらない。

 終わっていないのだろうか。いや、終わらせたつもりだった。高校一年の春、隣の家の庭でホースを持って笑っていた人。受験前にノートを貸してくれた人。何も言わずにいなくなった人。あの人を好きだった自分は、ずっと前に置いてきたつもりだった。

 けれど、再会してからの毎日は、置いてきたはずの場所へ何度も戻ってしまう。昔の記憶だけではない。今日の「いいと思う」、昨日の訛り、紙袋を開けてくれた指先。過去と現在が混ざるから、余計に厄介なのだ。

 食後、机の引き出しを片づけていると、古い透明ファイルが出てきた。高校時代の行事写真や、部活のプリントが適当に挟んである。その中に、一枚だけ、文化祭の準備中に撮られた写真があった。

 木材を運ぶ男子たちの端に、明が写っている。笑ってはいない。けれど、誰かに呼ばれて顔を上げた一瞬で、まだ大人になる前の輪郭をしていた。

 麻美はその写真を机へ置き、しばらく見つめた。今の明とは違う。違うのに、目元の光り方だけは同じだ。だから困る。

 携帯が鳴った。瑞葉からだった。

『見出し、通った?』
『通った』
『でしょうね』
『なんで』
『麻美がああいう顔して書いたやつ、だいたい通る』
 
 返そうとして、指が止まる。どういう顔、と打ちかけて、やめた。自分でもわかっている。あれは、仕事の顔だけではなかった。

 窓の外では、向かいの家の洗濯物が夜風に少し揺れている。遠くで救急車の音がした。何も劇的ではない夜の中で、麻美はようやく認めた。

 終わったものとして扱っていただけで、本当は、まだ終わっていないのかもしれない。

 認めたからといって、すぐ楽になるわけではない。むしろ、逃げ道が一つ減っただけだ。それでも、名前をつけないまま抱えているよりはましだった。

 机の上の写真をファイルへ戻し、見出し案のコピーをそっと鞄へ入れる。明日、編集部へ持っていくためではない。たぶん、自分が書いた言葉から目をそらさないためだった。
【終】

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