初恋はまだ終わらない、隣の席で
第12話 呼吸が止まるほど

 四月の最終週、特集第一回の掲載号が書店とコンビニに並んだ。朝一番で編集部へ入ると、机の上に積まれた見本誌の表紙が、いつもより少しだけ頼もしく見える。商店街特集の帯には、小さく「ノンフィクションの恋物語」の文字が入っていた。

 麻美は見本誌を手に取り、ページを開いた。喫茶店「文明」の記事、パン屋夫婦の聞き書き、その横に添えられた明の写真。レイアウトで見ていたはずなのに、印刷された紙の上へ落ち着くと、急に別物みたいに見える。

 午前十時を過ぎるころから、編集部の電話が少しずつ鳴り始めた。購読者からの感想、掲載店への問い合わせ、商店街の別の店主から「うちの話も聞くか」と言う連絡。いつもより明らかに反応が早い。

 瑞葉が受話器を置いて、珍しく口元を緩めた。
「いい感じ」
「うん」
「今のとこ、クレームより感想が多い」
「基準が総務」
「総務だから」
 
 妙依は朝から届いた封書を開けていた。見本誌を見た読者が、手紙をくれたのだという。便箋の文字はやや丸く、丁寧だった。

「これ、読んでいいですか」
 
 そう言って妙依が読み上げたのは、第一回に載せた「文明」の写真についての感想だった。

『店先に立つご夫婦の写真を見て、なぜか涙が出そうになりました。何か特別なことをしている場面ではないのに、長く一緒にいる人のあたたかさが伝わってきました』

 部屋が少しだけ静かになる。麻美は、妙依の声が止んだあとも、便箋の上へ残ったその言葉を頭の中で繰り返した。特別なことをしていないのに。あたたかさが伝わってきた。

 昼過ぎ、明が追加データの受け渡しで編集部へ来た。麻美は手紙のコピーを見せるか少し迷ってから、結局、机の上へそっと置いた。

「これ、読者の人から」
 
 明は目で内容を追い、最後の一行で視線を止めた。表情は大きく変わらない。けれど、指先だけが紙の端を少し強く押さえた。

「……へえ」
「へえ、だけ?」
「なんて返せばいいかわかんない」
 
 それは照れ隠しというより、本当に戸惑っている顔だった。褒め言葉を受け取るのに慣れていない人の顔だと、麻美は思う。

「嬉しくない?」
「嬉しいは嬉しい」
「なら、そう言えばいいのに」
「言い慣れてない」
 
 その不器用さが、今日は少しだけ愛おしい。

 夕方、印刷所へ見本誌を届けに行く用事ができて、麻美は風介のいる古書店併設の印刷所へ向かった。油と紙の匂いが濃い建物で、奥には断裁機の低い音が響いている。

「お、載ったな」
 
 風介は手のインクを布で拭いながら、見本誌を受け取った。ぱらぱらとページをめくり、パン屋夫婦の写真のところで止まる。

「これ、明のだろ」
「うん」
「前より、人の体温ある」
 
 風介はそこで顔を上げた。
「硬いの、悪いことじゃねえんだけどな」
「うん」
「でも、ずっと固めたままだと疲れるべ」
 
 明がその場にいたわけではないのに、まるで本人へ言っているようだった。麻美はなんとなく、その言葉を覚えておこうと思った。

 印刷所を出ると、日は傾きかけていた。帰り道、麻美は見本誌を胸へ抱えたまま、「文明」へ寄った。晃聡に追加分を渡すためだ。

 扉を開けると、明が窓際の席にいた。どうやら先に来ていたらしい。晃聡はカウンターの中で、コーヒー豆の袋を棚へ戻している。

「ちょうどよかった。さっきの感想、こいつにも言っといた」
「晃聡が?」
「俺、伝書鳩向いてる」
「鳩に失礼」
 
 麻美が笑って席へ近づくと、明がカメラの液晶をこちらへ向けた。

「今日、追加で現像した」
 
 表示されたのは、店先で笑う老夫婦の別カットだった。掲載された写真とは少し違う角度から撮られている。風で奥さんの髪がわずかに揺れ、店主の手がそれを見て笑いかけている、ほんの一瞬の写真。

 麻美は、言葉を失った。

 胸の真ん中へ、静かな熱が落ちてくる。大げさではないのに、逃げ場がない。呼吸を忘れるというのは、こういうことなのかもしれないと思った。息を吸う前に、その一枚が先に体の奥へ入ってきてしまう。

「……すごい」
 
 ようやく出たのは、それだけだった。

「そんなに?」
 明が少しだけ困ったように言う。
「うん」
「ただ笑ってるだけだよ」
「ただじゃない」
 
 麻美は画面を見たまま、ゆっくり首を振る。
「こういう時に、好きって言わなくても伝わるんだって、ちゃんとわかる」
 
 言ってから、自分の言葉の温度に少し驚いた。けれど引っ込めたくはなかった。

 明はしばらく何も言わなかった。晃聡まで、珍しく口を挟まない。店の奥で冷蔵庫の低い音だけが続いている。

「前は」
 明がようやく言う。
「こういうの、狙ってなかった」
「うん」
「でも今日、紙になったの見て、ああ、撮れてたんだなって思った」
 
 その「撮れてた」が、写真のことだけに聞こえない。麻美は画面から目を離し、明を見た。明は相変わらず大きなことを言う顔ではない。けれど目だけは、まっすぐこちらを見ていた。

 晃聡が、ようやく空気を崩す。
「よし。じゃあ記念にプリン食うか」
「どういう流れ」
「感動のあとに糖分。文明の正解」
 
 三人分のプリンが出てきて、スプーンの音がやわらかく重なった。少しだけ間の抜けたその時間が、かえってありがたかった。感情の山をそのまま放っておくと、どこへ置いていいかわからなくなるからだ。

 帰り際、麻美は店の前で立ち止まり、夜になりかけた空を見上げた。肺へ入る空気が、いつもより深い。

「今日は、ありがとう」
 明が隣で言う。
「私こそ」
「いや。感想」
「本音だよ」
「……うん」
 
 たったそれだけの会話なのに、胸がまた静かに波打つ。

 麻美は思う。好きという気持ちは、ときめきだけでは続かない。けれど、ときめきがまったくないままでは、たぶん始まりもしない。そして今日、自分はたしかに、ときめいた。

 店のガラス越しに、ピアノの黒い影が見える。まだ蓋は閉じている。けれど、中にはきっと、音がちゃんと残っている。そう思える夜だった。
【終】

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