初恋はまだ終わらない、隣の席で
第13話 どうにかなりそうです
連休明けの朝、編集部へ入った瞬間、空気が少しだけ重いとわかった。窓を開けても抜けきらない種類の重さだ。机の上には見本誌の追加分、封書の束、印刷所から戻った請求書。そのいちばん上に、編集長の手書きメモが置かれている。
『午後一、後半企画の予算確認』
嫌な予感しかしない字面だった。
午前中は読者からの反響対応で終わった。電話口の声は明るい。掲載されたパン屋夫婦の記事を読んで、「うちの両親も取材してほしい」と言う人までいる。商店街の花屋からは、「店番してるうちの祖母の昔話なら山ほどある」と連絡が来た。反応だけ見れば、特集はむしろこれから伸びそうだ。
それなのに、午後一番の会議で編集長が出した資料は、紙の白さがやけに冷たかった。広告出稿が予定より伸びず、全体のページ数調整が必要になる。つまり、特集の後半回数を減らすかもしれない、という話だった。
「今のままの本数では厳しい」
編集長は苦い顔で言う。言いにくいことを言っている人の顔だとわかるだけに、責めきれない。
「反響は出てます」
麻美は思わず口を開いた。
「出てる。だから続けたい」
「私もそう思う」
編集長はすぐに返す。
「ただ、誌面全体で見ないといけない」
その「全体」が正しいのもわかる。わかるから、なおさら苦しい。
会議が終わると、瑞葉が資料をまとめながら言った。
「落ち込むのはあと。今は削られても残る形を考えたほうがいい」
「切り替え早いね」
「経理は泣いてから計算しないから」
それは瑞葉なりの励ましだった。妙依も、赤ペンをキャップへ戻しながら短く言う。
「反響が数字になるまで、少し時差があります」
「時差」
「手紙を書く人は、その日のうちに書かないので」
たしかにそうだ。今届いている反響は、第一回を読んだ人が一晩か二晩考えてから出したものだろう。遅れて届く熱がある。
それでも、麻美の胸はざわついたままだった。取材を申し込んでくれた人たちの顔が次々浮かぶ。ここで縮小したら、拾えなくなる話が出る。恋の話は、締切に合わせて整列して待ってくれたりしないのに。
夕方、原稿の差し替え確認で「文明」へ寄ると、晃聡が麻美の顔を見るなり言った。
「会議、だめだったか」
「顔に出てる?」
「常連がスプーン落とした時と同じ顔してる」
「わかりにくい」
「わかる人にはわかる」
店はちょうど客足が引いたところだった。窓際の席へ座ると、カウンター越しにコーヒーが置かれる。今日は何も頼む前から出てきた。
「サービス」
「珍しい」
「こういう日はな」
明もあとから店へ入ってきた。撮影帰りらしく、肩にバッグを下げている。麻美の前のコーヒーを見て、晃聡へ眉を上げた。
「俺には」
「自分で頼め」
「差がある」
「ある」
その雑なやり取りに少しだけ肩の力が抜けた。けれど、抜けた分だけ、さっきまで堪えていた悔しさもこぼれそうになる。
「予算、後半厳しいって」
麻美が言うと、明は椅子を引く手を止めた。
「どのくらい」
「まだ確定じゃない。でも、回数減るかもしれない」
「……そっか」
明はそれ以上すぐには言わなかった。晃聡がカウンターを拭く布巾を置き、低く言う。
「反響あるんだろ」
「ある」
「じゃあ、やりようあるべ」
「そんな簡単じゃ」
「簡単とは言ってねえよ」
晃聡は少しだけ身を乗り出した。
「紙が減るなら、減った紙で一番効くことやるしかねえだろ。店だってそうだ。売れない日があるからって、すぐ看板下ろすわけじゃない」
雑に聞こえて、筋が通っている。麻美はカップへ指を添えたまま、深く息を吐いた。
そのあと、第二回の掲載後に届いた追加の反響を確認した。花屋、印刷所、役場の広報課。取材に協力したい、昔話がある、写真募集なら手伝える。目の前の数字だけではない小さな動きが、たしかに町のあちこちで起き始めている。
明が携帯へ届いたメールを確認しながら、ふと視線を落とした。画面には東京の編集者からの再送信が来ていたが、麻美はそこまでは知らない。ただ、明がいつもより少しだけ長く黙ったことはわかった。
「麻美」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「もし縮小されても、写真は残せる」
「え」
「載せ方を変えれば。文章と組み合わせる枚数、まだ工夫できる」
助けるという言い方ではない。自分の持ち場で支えると言う声だった。そのことが、胸に静かに効く。
「うん」
「あと、追加企画も考えられる」
「誌面の外ってこと?」
「町を使うとか」
晃聡がすぐさま食いつく。
「だったら掲示板貸すぞ」
「店主の判断が早い」
「こういう時だけな」
三人で話しているうちに、さっきまで会議室で感じていた袋小路の感じが、ほんの少し薄くなった。まだ何も解決していない。けれど、手がまったくないわけでもない。
帰り際、晃聡がレジ横の焼き菓子を紙袋へ入れて寄こした。
「これも、おこぼれ」
「今日は多いね」
「こういう日は、食いもんでつなぐ」
店の外へ出て、麻美は紙袋のぬくもりを掌に感じたまま、振り返った。ガラス越しに見える店内には、明と晃聡が何かまだ話している。自分の知らない言葉も、知らない苦さも、きっとそれぞれにあるのだろう。
それでも、歩き出しながら、麻美は携帯を取り出した。晃聡とのトーク画面を開き、短く打つ。
どうにかなりそうです。
前に送った時とは違う意味だった。まだ不安はある。けれど、今回は、前に進むために言っている。
送信すると、すぐに返事が来た。
『そういう顔になってから言え』
思わず笑った。笑えるうちは、まだ大丈夫だ。たぶん、本当にどうにかなりそうなのだと、少しだけ信じられた。
【終】
連休明けの朝、編集部へ入った瞬間、空気が少しだけ重いとわかった。窓を開けても抜けきらない種類の重さだ。机の上には見本誌の追加分、封書の束、印刷所から戻った請求書。そのいちばん上に、編集長の手書きメモが置かれている。
『午後一、後半企画の予算確認』
嫌な予感しかしない字面だった。
午前中は読者からの反響対応で終わった。電話口の声は明るい。掲載されたパン屋夫婦の記事を読んで、「うちの両親も取材してほしい」と言う人までいる。商店街の花屋からは、「店番してるうちの祖母の昔話なら山ほどある」と連絡が来た。反応だけ見れば、特集はむしろこれから伸びそうだ。
それなのに、午後一番の会議で編集長が出した資料は、紙の白さがやけに冷たかった。広告出稿が予定より伸びず、全体のページ数調整が必要になる。つまり、特集の後半回数を減らすかもしれない、という話だった。
「今のままの本数では厳しい」
編集長は苦い顔で言う。言いにくいことを言っている人の顔だとわかるだけに、責めきれない。
「反響は出てます」
麻美は思わず口を開いた。
「出てる。だから続けたい」
「私もそう思う」
編集長はすぐに返す。
「ただ、誌面全体で見ないといけない」
その「全体」が正しいのもわかる。わかるから、なおさら苦しい。
会議が終わると、瑞葉が資料をまとめながら言った。
「落ち込むのはあと。今は削られても残る形を考えたほうがいい」
「切り替え早いね」
「経理は泣いてから計算しないから」
それは瑞葉なりの励ましだった。妙依も、赤ペンをキャップへ戻しながら短く言う。
「反響が数字になるまで、少し時差があります」
「時差」
「手紙を書く人は、その日のうちに書かないので」
たしかにそうだ。今届いている反響は、第一回を読んだ人が一晩か二晩考えてから出したものだろう。遅れて届く熱がある。
それでも、麻美の胸はざわついたままだった。取材を申し込んでくれた人たちの顔が次々浮かぶ。ここで縮小したら、拾えなくなる話が出る。恋の話は、締切に合わせて整列して待ってくれたりしないのに。
夕方、原稿の差し替え確認で「文明」へ寄ると、晃聡が麻美の顔を見るなり言った。
「会議、だめだったか」
「顔に出てる?」
「常連がスプーン落とした時と同じ顔してる」
「わかりにくい」
「わかる人にはわかる」
店はちょうど客足が引いたところだった。窓際の席へ座ると、カウンター越しにコーヒーが置かれる。今日は何も頼む前から出てきた。
「サービス」
「珍しい」
「こういう日はな」
明もあとから店へ入ってきた。撮影帰りらしく、肩にバッグを下げている。麻美の前のコーヒーを見て、晃聡へ眉を上げた。
「俺には」
「自分で頼め」
「差がある」
「ある」
その雑なやり取りに少しだけ肩の力が抜けた。けれど、抜けた分だけ、さっきまで堪えていた悔しさもこぼれそうになる。
「予算、後半厳しいって」
麻美が言うと、明は椅子を引く手を止めた。
「どのくらい」
「まだ確定じゃない。でも、回数減るかもしれない」
「……そっか」
明はそれ以上すぐには言わなかった。晃聡がカウンターを拭く布巾を置き、低く言う。
「反響あるんだろ」
「ある」
「じゃあ、やりようあるべ」
「そんな簡単じゃ」
「簡単とは言ってねえよ」
晃聡は少しだけ身を乗り出した。
「紙が減るなら、減った紙で一番効くことやるしかねえだろ。店だってそうだ。売れない日があるからって、すぐ看板下ろすわけじゃない」
雑に聞こえて、筋が通っている。麻美はカップへ指を添えたまま、深く息を吐いた。
そのあと、第二回の掲載後に届いた追加の反響を確認した。花屋、印刷所、役場の広報課。取材に協力したい、昔話がある、写真募集なら手伝える。目の前の数字だけではない小さな動きが、たしかに町のあちこちで起き始めている。
明が携帯へ届いたメールを確認しながら、ふと視線を落とした。画面には東京の編集者からの再送信が来ていたが、麻美はそこまでは知らない。ただ、明がいつもより少しだけ長く黙ったことはわかった。
「麻美」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「もし縮小されても、写真は残せる」
「え」
「載せ方を変えれば。文章と組み合わせる枚数、まだ工夫できる」
助けるという言い方ではない。自分の持ち場で支えると言う声だった。そのことが、胸に静かに効く。
「うん」
「あと、追加企画も考えられる」
「誌面の外ってこと?」
「町を使うとか」
晃聡がすぐさま食いつく。
「だったら掲示板貸すぞ」
「店主の判断が早い」
「こういう時だけな」
三人で話しているうちに、さっきまで会議室で感じていた袋小路の感じが、ほんの少し薄くなった。まだ何も解決していない。けれど、手がまったくないわけでもない。
帰り際、晃聡がレジ横の焼き菓子を紙袋へ入れて寄こした。
「これも、おこぼれ」
「今日は多いね」
「こういう日は、食いもんでつなぐ」
店の外へ出て、麻美は紙袋のぬくもりを掌に感じたまま、振り返った。ガラス越しに見える店内には、明と晃聡が何かまだ話している。自分の知らない言葉も、知らない苦さも、きっとそれぞれにあるのだろう。
それでも、歩き出しながら、麻美は携帯を取り出した。晃聡とのトーク画面を開き、短く打つ。
どうにかなりそうです。
前に送った時とは違う意味だった。まだ不安はある。けれど、今回は、前に進むために言っている。
送信すると、すぐに返事が来た。
『そういう顔になってから言え』
思わず笑った。笑えるうちは、まだ大丈夫だ。たぶん、本当にどうにかなりそうなのだと、少しだけ信じられた。
【終】