初恋はまだ終わらない、隣の席で
第14話 一緒にいたいと言えない

 水曜の夜、校了直前の編集部は、紙とキーボードの音だけで回っていた。時計は九時を過ぎ、窓の外には川向こうのマンションの灯りが並んでいる。麻美は最後の見出し調整を終え、肩を軽く回した。

「先に出る?」
 明が席の横で言う。
「ううん、一緒に」
 
 返してから、少しだけ自分で驚く。けれど、明は特別な顔をせず、
「じゃあ待つ」
とだけ言った。

 それが妙にうれしかった。

 十分後、二人で編集部を出る。ビルの外は昼よりぐっと冷えていた。駅までの最短は大通り沿いだが、麻美は自然と川沿いの道へ足を向けた。明も何も言わず、横へ並ぶ。

 夜の川は、街灯の色だけ拾って鈍く流れている。遊歩道には人影がまばらで、少し離れた場所を犬の散歩をする人が通り過ぎていった。

「今日は静かだね」
 麻美が言う。
「連休明けだからかな」
「関係ある?」
「ないかも」
 
 会話はそんな調子で、細く続く。仕事終わりの疲れもある。けれど無理に話題を探さなくても歩けるのが、今は不思議だった。

 橋の手前まで来た時、明がふっと足をゆるめた。
「少し遠回りする?」
 
 たったそれだけなのに、胸の奥が小さく跳ねる。麻美はできるだけ平然と返した。
「うん。今日は急いでないし」
 
 本当は、その言葉を待っていた。もう少し一緒にいたい。けれど、自分から先に言うのはまだ怖い。だから、明の提案に乗る形がちょうどよかった。

 川沿いの道には、去年植えられたばかりの若い柳が並んでいた。風が通るたび、細い枝が揺れて、水面へ影を落とす。歩きながら、麻美はふと思い出した。

「昔、このへんで転んだよね」
「麻美が」
「そう。自転車で」
「段差に気づかなくて」
「なんでそんなにはっきり覚えてるの」
「泣かなかったから」
 
 麻美は笑った。
「褒めてる?」
「ちょっと」
「ひどい擦り傷だったのに」
「でも、先に自転車の心配してた」
「だってカゴ歪んだから」
「らしい」

 その「らしい」が、優しかった。明は昔のことを、記念日のように取り上げない。ただ、今の会話の中へ自然に置く。その置き方が、かえって胸に残る。

 橋の上へ出ると、風が少し強かった。麻美が髪を押さえると、明が立ち止まり、持っていた紙袋をさりげなく風下側へ移す。中は撮影で使った小物らしい。濡れたら困るものを守っただけかもしれない。けれど、自分もその内側へ入れてもらったような気がしてしまう。

「今日は、いい見開きになりそう」
 麻美が話題を戻すように言った。
「うん」
「パン屋さんの続きと、花屋さんの前振り」
「見出し、決まった?」
「まだ迷ってる」
「何案」
「四つ」
「多い」
「いつも多い」
 
 そう言いながらメモ帳を出しかけると、明が笑った。
「今は出さなくていい」
「仕事だよ」
「わかってる」
「じゃあ」
「でも、今じゃなくていい」
 
 言われて、麻美は手を止めた。夜風の中、川の音と足音だけが少し続く。仕事じゃなくていい時間。そういうものが、二人の間にも少しずつできてきたのだと気づく。

 歩道の先に自販機の灯りが見えた。明が立ち止まり、
「何か飲む?」
と訊く。
「温かいの」
「了解」

 買ってくれたのは、甘さの強いミルクティーだった。麻美は缶を受け取りながら言う。
「私、甘いの好きって覚えてた?」
「前もこれ飲んでた」
「いつ」
「高校の時」
 
 答えが早すぎて、麻美はしばらく何も言えなかった。覚えている。そんなことまで。胸のどこかが、ゆっくり熱を持つ。

 缶を両手で包むと、冷えていた指先がほどけていく。明の手にも、同じように温かい缶コーヒーがある。金属越しの熱が、会話のない間を埋めてくれる。

 本当は、一緒にいたい、と言いたかった。今日だけじゃなく、もっと普通の顔で、明日も明後日も、こうして少し遠回りしたい。けれど、その言葉を口にした瞬間、今の均衡が崩れる気がして、まだ怖い。

 だから麻美は、橋を渡り切る手前で、代わりのように言った。
「また明日」
 
 明が一瞬だけ目を見開く。けれどすぐに、少しだけやわらいだ顔で返した。
「……また明日」
 
 その返事が、思っていたよりずっと嬉しかった。好きだという言葉より先に、明日も会える前提が置かれる。大人になってからの関係は、たぶんそういうところから少しずつ形になる。

 駅前へ戻る道で、二人の足並みは最後まで同じくらいだった。歩幅を合わせようともしないのに、自然にずれない。そのことを、麻美はしばらく覚えていた。
【終】

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